礼拝説教

3月19

 マタイによる福音書25章1〜13節

 

あなたがたはその日その時を知らないのだから

 

平良 師

 

 これは、天の国のたとえ話です。花婿を迎えに10人のおとめがそれぞれにともし火を持って出て行きました。当時は、花嫁のところへ花婿が迎えにくるのですが、その花婿を花嫁の友人が明かりを持って出迎える習慣がありました。ですから、ともし火を持っていた10人というのは、花嫁たちではなく、結婚をする花嫁の友人たちでした。友人たちですから、自分の花婿が来るでもなしと、さほどに、この迎えるという仕事に責任を感じていなかった者も中にはいたと思われます。

 そこらの意識の差を聖書は、そのうちの5人は賢く、5人は愚かであったと言っているのかもしれません。聖書は、高い能力を身につけよとは言いませんが、賢くあれとは、いろいろな場面で私たちに奨めております。賢い5人は、油が切れたときのためにと予備の油を用意しておりました。愚かな5人には、その準備はありませんでした。定刻に来るに違いないと思い込んでいたのでしょう。

 ところで、どちらが信仰的でしょうか。賢いおとめたちは、予定していた時刻に花婿が来ないことがあるかもしれないと考えたのです。愚かな娘たちは、予定の時刻に来ないはずはないと思い込んでおりました。そういった意味では、油を用意していなかった方が信仰的であるかもしれません。ただ、実際のところは、単に、油を用意し忘れたといった不注意といったお話であって、そういった意味では、やはり愚かなおとめたちと言われても仕方がなかったのかもしれませんが。そして、花婿は予定した時刻には到着せず、真夜中にやってきたのでした。

 聖書には、「ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった」と書かれています。遅れるというのは、予定していたよりも遅れたという意味でしょう。定刻に来ると信じ、予備の油を持っていなかったおとめたちは、信仰的なようでありながらも、ここでは、結果として、愚かなおとめたちだったということになります。

 この箇所からは、当時のイエス様が十字架につかれ、復活されたのち、再び来られるという、それもすぐにでもそれはあるのではないかといった信仰が背景にあるかと思われます。ちなみに、エホバの方々は、実に20年ほど前までは、毎年のように、終末がいつ来るかを細かな数字を示しながら公にしておりましたが、最近では、それをしておりません。それまでは、すぐにでもそれは起こるといった信仰をもっていたのですが、何度もはずれましたので、それはもう違うといった認識をお持ちになったのだと思います。

 それは、初代教会も同じであったことが福音書やパウロの手紙などからもうかがいしれるのです。初代教会ができはじめた頃は、すぐにでも再臨のイエス様が来られると思っていたのが、そのうちにいくら待ってもそれは起こらないものですから、すぐではないのではないかと考えるようになっていきました。

 さて、10人のおとめたちは、予定されていた時刻に来なかった花婿を待ちきれず、体力的にも限界がきて、皆眠気がさして眠り込んでしまっていたのです。ゲッセマネの園で、イエス様から再三叱られるのに、それでも肉体の要求には負けてしまって、眠ってしまった弟子たちがそうでありました。すると、真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がしたので、皆起きてそれぞれのともし火を整えたのですが、すでに火は消えかかっておりました。

 愚かなおとめたちは、咄嗟に油を分けて欲しいと賢いおとめたちに頼みましたが、彼女たちも分けてあげるほどの量はなかったので、店に行って買って来なさい、とつれない返事です。彼女たちは、すぐにでも花婿が来るというのに、賢いおとめたちの言うことに従って、真夜中に油を買いにでかけていきました。こういうところを見ると、確かに、この5人は愚かなおとめたちであると言えるのではないでしょうか。

 時間がないのですから、賢いおとめたちに頼んで、例えば賢いおとめたちと対になって、二人一組で、花婿を迎えに行くことはできなかったのでしょうか。それじゃ、花婿に失礼になるといったことはあったかもしれませんが、後で、婚宴の席から締め出されるということにはならなかったと思います。しかし、当時は、こういうときのともし火は、ひとりに一つであって、二人でひとつのともし火を持つということ自体、とんでもないことであったのでしょう。

 私たちもまた、イエス様が来られるときには、ともし火は、ひとりに一つであって、他人のともし火のもとに自分の身をさらすという事は、できないことであると教えられます。終末のときに、神様の前には、二人で立つということはできません。ひとりずつなのであります。

 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿はやってきました。花婿は、賢いおとめたちの出迎えで、一緒に婚宴の席に入り、そこで戸は閉められてしまったのです。そのあとで、愚かなおとめたちが帰ってきて、婚宴が行われている建物に入ろうとするのですが、その家の主人は、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と言ったということです。

 このたとえ話は、天の国のたとえ話として語られているのですが、明らかに、これは、イエス様が再びこの世に来られるときのお話です。マタイによる福音書の、ことが起こった時の流れということでは、この箇所ではまだ、イエス様は十字架にもついていないわけですから、ちょっとおかしなことになります。

 しかし、ご存じのように、マタイによる福音書は、80年代から90年代にかけて書かれていますので、マタイが所属している教会に伝わっていた伝承やもろもろの記事や資料、その中には70年の頃にマルコの書いた福音書も資料の一つとしてあったと考えられていますが、それらをもとにマタイは、福音書を書いておりますので、既に、イエス様の十字架と復活の理解、さらに、再臨のイエス様が来られるという思想は、あらかたのものができあがっていたと考えるのが、適当だろうと思われます。

 そういうわけで、ここでは、イエス様が再び来られること、終末のお話しが既に語られていると理解してよいかと思います。ですから、このお話は、イエス様が来られることを婚礼に、また、イエス様を花婿にたとえているのです。ともし火を持って花婿を迎えにいったのは、私たちだということになります。

 つまり、イエス様が来られるときに、目を覚ましているのか、それができなくても、私たちは、それなりの備えをなしているのか、それとも、備えがなくて、神の国に入れなくなるのか、という問いがなされているのです。

 このたとえ話は「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」といった言葉で締めくくられています。この箇所は、花婿がいつ来てもよいように、日頃の備えをしっかりとしておきなさい、というように理解できます。それを、「だから、目を覚ましていなさい」といった言い方で、表現しているのだと理解することができます。

 私たちには、イエス様がいつ来られるかは知らされません。そうなると、このお話は、辻褄があいません。「花婿が来るのが遅れた」とありますから、遅れたというのは、明らかに、何か定まったときがあって、そこを基準にして、遅れたというのですから、「あなたがたは、その日、その時を知らない」というのは、おかしなことであると思います。それなら、だいたいのことは伝えられているが、厳密には、わからないということでしょうか。

 花婿がこのあたりに来るとは言われているけれど、それが何日の何時頃とかいう厳密なことは、知らされていないということなのでしょう。少なくとも、来られるのははっきりしているが、あなたがたが今思っているように、すぐではないということなのでしょうか。否、誰にもわからないのです。それを算出するなどといったことも実はしてはいけないことなのではないでしょうか。しかし、それは必ず来る、そのことだけは間違いありませんよ、と聖書は私たちに伝えているのです。

 だから、目を覚ましていなさい、眠っていたら、そのときが来てもわからないし、わからなければ、イエス様に会うこともなく、天国の門は閉じられてしまいますよ、ということです。しかし、眠らないわけにはまいりません。イエス様の弟子たちも、イエス様が、ゲッセマネの園で祈られたときに、眠らないでいなさい、と言われたにもかかわらず、それができませんでした。人間の生理的な現象ですから、それをやめろというのは無理な話です。私たちも24時間眠らないでいることは、ほとんどできません。どこかで居眠りをするのではないでしょうか。

 しかし、この賢いおとめたちのように、つい眠り込んでしまうという事もある弱い自分であることを知って、もしもの時に備えることはできます。夜中にきてもよいように、油をあらかじめ壺に入れて持っていることはできるのです。第一は、目をさましておくことですが、それが、難しいのであれば、予備の油を持つなどして、そのための備えをしておくことです。

 日頃の備えということで考えてみたいのですが、今、私たちに脅威を与えているのは、巨大地震です。南海トラフで起こる巨大地震です。これは、色々なデータから、2030年から2040年の頃に起こるのではないかと言われています。静岡県から宮崎県に至るまでの間の太平洋側に面している5つのプレートが連動して起こる巨大地震のようですが、ある学者は、もういつ起こっても不思議ではないといいます。最悪の場合、都市部の直下型地震になったときには、死者が33万人もでるのではないかと予想されています。

 ですから、該当する地域では防災のためのいろいろな手立てがなされているのです。防波堤の整備、海沿いの高台の整備、避難訓練も真剣なものです。私たちは、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震などを経験しています、その間にも、福岡でも大きな地震がありましたし、最近では鳥取でもありましたから、このような大きな地震は自分たちの地域では起こることはないなどとは、もう誰も思わないでしょう。

 しかも、地震のメカニズムは、かなり明らかになってきました。地震は一定周期で、日本では繰り返し起こるものであることもわかってきました。神様がこの地球を創造されたときから、その創造の秩序に従って、地震は起こってきたのです。しかし、何月何日の何時頃などといったことを一週間くらい前には割り出すことができるといったことなどは、まだまだのようです。

 熊本地震のときには、携帯電話のアラームが、地震の数秒前になりましたが、それでも咄嗟のことで何をどうしてよいものやら、スピーディーな動きにはなかなかなりませんし、せめて、何時間前にはわかるくらいにならないと問題の解決にはならないように思います。それでも、人間は、ある程度までは予知できるようになりましたし、その準備もなされるようになりましたから、これは進歩だと思います。命にかかわることですから、必死になって、いつ巨大地震が起こるかを私たちは探ろうと努力します。

 ところで、このような感じで、私たちは、終末のときに至って、イエス様が再び来られるということを本気でどこまで考えているでしょうか。そのための備えをどのようにしているでしょうか。神の国への入国、わたしたちの命がかかっております。しかし、終末というものが、いつ、何時にそれが来るかを知ろうとすれば、エホバの方々と同じ過ちを犯すことになります。聖書は、明らかに、それは私たちには知らされないとあるからです。ですから、できることは、何時終末がきてもよいというように、日ごろ、その準備をしていることだけなのです。

 しかし、これに関して難しいのは、何度も言いますように、切実さが持てないというところです。なぜなら、私たちには、その日、その時が知らされないからであって、その日、その時は、ある日突然にやってくるということだけだからです。そうすると、自ずと、意識は薄れてしまいます。

 緊張して、ずっと張りつめていることはできません。できることは日頃から、いつ来てもいいように、この賢いおとめたちのように、予備の油の備えをしておくことだけなのです。それも、修行僧のようには行かず、ゆるい感じでしか、できないかもしれません。

 それでは、それは具体的にはどういうことをすればよいのか、ということです。明日こそは、明日こそはでは、これもだめだということはわかるでしょう。神様に喜ばれる生活を日々歩むということです。これもまた、簡単なようで、そうはいかないと言われる方はいくらでもいるはずです。このように語る私もまた、神様に喜ばれる生活をしているかというと、お恥ずかしいことですがそうではありません。

 むしろ、その逆です。パウロが言ったように、した方がよいと思うことはしないで、しない方がいいと思うことをやっています。おそらく、割合的には、このような人々の方が多いかもしれませんね。多いゆえに、聖書は、神様に喜ばれる生き方をするようにと奨めているのです。終末のときに、神様が完全な者に変えてくださることは信じても、だからといって、このままでいいはずもありません。

 それならと、イエス様が来られるまでのユダヤ人たちのように自分の義を神様の前に差し出すという、いわば律法に生きる、ねばならないという生き方も、神様に喜ばれる生き方とは言い難いと思います。イエス様が教えてくださった生き方をすることです。例えば、明日のことを思い悩むな、神様にすべてを委ねて生きよ、と教えられているなら、そのように生きることです。

 自分を愛するように隣人を愛せよ、と教えられたのなら、そのように生きることです。でも、それらも、ねばならないからするというのではなく、イエス様の十字架を見つめたり、救いの出来事に感謝したり、復活の力とありがたさを思ったりする中から、神様やイエス様の本意に与り、教えられているような思いに自ずとなったり、行動できることが大切なのです。

 まずは、主を私たちは本当に待ち望んでいるのか、ということがあります。それから、次は、その主がいつ来られてもよいように、この世にあって、あなたは目を覚ましていますか、ということです。この世にありながら、眠ってはいませんか、ということです。そして、それができないというのであれば、いつ来られてもよいような、あなたなりの備えをしていますか、待ち方をしていますか、つまり自然体でのイエス様に喜ばれる生き方、つまり、それでまあOKと言われる生き方、何とか赦しを得て、神の国に入れてもらえるような生き方をしていますか、ということです。

 「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」というように、裁きはあるのですから、愚かなおとめのように、のほほんと構えていてはいけませんよ、というのが今日の箇所です。ただし、油を用意する程度でよいというのは、ありがたいことではありませんか。気持ちさえあれば、いつでも誰にでもできますということですから。