礼拝説教

3月26

 マタイによる福音書 26章17〜30節

 

主よ、まさかわたしのことでは−裏切りの予感−

 

平良 師

 本日の聖書の箇所は、最後の晩餐の場面です。前の14節からのところで、ユダが裏切りの思いを起こして、祭司長のところへ行き、イエス様を売って、金を得ようとします。結果として、銀貨30枚が支払われることとなりました。それからは、ユダはいつイエス様を売り渡すかの機会を狙うようになっていたとありますから、その流の中でのイエス様と弟子たちの会話のやりとりだということになります。

 また、この晩餐に至る前の26章の2節では「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」とあり、弟子たちの中で、かなりの動揺が湧き上っているということも想像できます。

 この最後の晩餐は、かなりの緊張が高まっているような、そのような中での食事であったかと思いますが、弟子たちには、イエス様の次の言葉は突然のように思われたことでしょう。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。それで、弟子たちは非常に心を痛めたと書かれています。誰が、いったいそのようなことをするのか、ひどい話だ、ということでしょうか。そして、その次にどのような態度を弟子たちはとったかと言いますと、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めたのでした。

 そこで、イエス様は、「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」と言われ、暗にそれが、そのとき同じく鉢に食べ物を浸していたであろうユダであることを伝えます。そして、その直後、ユダも「先生、まさかわたしのことでは」と言うのですが、そのときイエス様は「それはあなたの言ったことだ」と意味深長な言い方をされました。一説では、これは、ユダの答えにまともに応じなかったということでもあるとのことです。

 口語訳聖書では、「先生、まさかわたしのことでは」とユダが問うたときに、イエス様は、「いや、あなただ」そう答えたことになっておりまして、そうなると、これは身もふたもないということになりますが、新共同訳では、先ほど申しましたように「それはあなたの言ったことだ」と訳されており、イエス様は、まともに応答なさっておられません。この聖書の箇所は、キリストを信じて歩んでいる者たちにとって、実に、日々の生活の中で自分の身にも起こりそうな出来事として迫ってきます。

 私たちは、イエス様を信じて、日々の生活を送っておりますが、いつもどこかでイエス様を裏切っているのではないか、今はそうでなくても、何かの折には裏切るのではないか、といった恐れが頭の片隅をよぎることがあります。弟子たちは、それまでのイエス様の言動からいよいよ何かのっぴきならぬ事態が訪れるのではないか、といった恐れの中にはあったと思いますから、イエス様が言われた弟子の一人が裏切ろうとしているというのは、根も葉もないことではなく、おそらく、誰かそういう者が、自分たちの中から現れるだろうくらいのことは考えたと思われます。

 弟子たちは、その多くの者たちがほんとうのところは、自信がなかったに違いありません。ひょっとして、自分がその裏切者にならないとも限らない、そのような予感の中にあったことでしょう。ですけれども、内なるそのような自分の弱さに彼らは気づきたくなかったのです。裏切りの予感があったとしても、それを認める気にはなれない、自分に限ってそのようなことになるはずはない、それで、代わる代わる「まさかわたしのことでは」と答えたのでした。自分に限ってそのようなことがあるはずがない、彼らは各々自分に言い聞かせたのです。

 例えば、ペトロのように、自分は他の者たちとは違う、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と自分自身を鼓舞するように言った者もおりました。聖書を読む限り、それは、ペトロだけでなく、他の弟子たちも同じように言ったとありますから、皆、気持はペトロのようであったと言えるのですが、しかも「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とそこまでペトロは言っております。そして、他の弟子たちも、どうもそうであったようです。

 しかし、弟子たちは、一応に、イエス様が捕えられたときに、逃げ出してしまって、イエス様のことを裏切ることになるのです。このペトロでさえ、最後には、イエス様のことを知らないと言い張って、裏切ることをします。否、ちょっと軽いところのあるペトロだったからこそ、そのようなことになったのだ、と他のペトロの言動からして、そのように言うこともできるかもしれません。

 ただ、後に、裏切ったペトロであったからこそ、自信に満ちていたペトロだったからこそ、そうできなかった自分の弱さを否というほど認識することになったのでした。しかも、その自分のために、イエス様は十字架におかかりになったといった認識に至ったときに、それは、後の彼の強さともなっていったはずです。そして、それはペトロだけでなく、他の弟子たちも同じであったはずです。

 私たちは、どれほど、自分の弱さをわかっているでしょうか。自分がだめな人間であることをどれほど知っているでしょうか。弱いからこそ、防衛本能のようなものも強く働いて、強く見せたりするものです。破れを見せることもできません。弱いからこそ、自分の弱さも認めることができません。弱いからこそ、謝ることもできません。弱いからこそ、自分よりもさらに弱そうな人を蔑視したりするものです。そういった意味では、私もまた、実に弱い者です。

 私が、最初に、自分の弱さを否というほど思い知らされて、自尊心も誇りも何もかも木端微塵に砕けたのは、大学生の頃、山岳部でいわゆるバテるという体験をしたときでした。あのとき、わたしは最高に惨めでした。何の気力もなくなり、ただ、この苦痛から一刻も早く解放されたい、それだけで、その場にぐったりと倒れておりました。もう、どうすることもできないといった気持ちでした。私が、大学一年生のとき夏の本格的な山行をしたときのことでした。

 初めての富山と長野にまたがる剣岳の2週間にわたるキャンプのため、最初の日に、室堂から剣沢に40kgほどの荷物を運ぶことになって、そのときに、ばててしまったのでした。先輩たちも、少しバテてきて、よたよたと歩き始めた私に向かって、初めのうちはがんばれと檄をとばしていたのですが、そのうちに、同情したらしく、しょうがないなあ、もうだめか、しばらく休め、そんな具合でした。近くの小学生たちが、学校の行事で、立山に登るため、私がバテて道の側面にへばりつくようにしているその傍らを通り過ぎて行きました。小学生たちも、可愛そうな人がいるといったまなざしをしていました。

 あのときのことは、私が、人生で経験した最初の挫折でした。自分という人間はこうなるのだと思いました。無力感、絶望感、挫折感、そのような思いが充満しておりました。多くの小説がテーマにしているのは、人間とは何者かということです。強い者がどんどん転落していく姿、弱い者が、どんどん強くなっていく姿、正義を主張していた者が、悪に手を染め、悪人が、あるとき聖人のようになる、そのような人間模様が描かれます。

 つまり、人間は、その人が信念があるからとか、正義感が強いとか、誠実であるとか、愛にあふれているとか、などの良きものも、その時の劣悪な環境や状況によって、また、度重なる苦しみ、あるいは快楽を求める本能などによって、いかようにでも変りうるものであることを知らされます。と同時に、弱い、ダメだと思われて人が、ある状況のなかで、毅然とした態度をとりえたり、次第に強く成長させられたり、愛のあふれる者に変えられたりもするのです。

 人間は強くもなるし、弱くもなる、罪にまみれることもあるし、罪から解放されているときもあります。卑怯者にもなります。英雄にもなります。そのような者であることをいつも認識しておく必要があります。常に一定で、安定していて、どのようなときにも冷静で、落ち着いていて変わらないなどという人はおりません。

 聖書の登場人物たちも、この人は、最初から最後まで、罪を犯すことなく、弱さを露わにすることもなく、完璧であったという者は、一人だにいないのではないでしょうか。ダビデもソロモンも罪を犯しました。しかし、ヨブやダニエルのような立派な人物もいたではないかという方もいるでしょうが、そのヨブもついには罪を犯し、ダニエルは確かに、罪に陥る姿は描かれておりませんが、そのような彼もまた、見た夢の内容に憂いをおぼえ、悩まされるという、人間的弱さを表している箇所はあります。

 弟子たちが、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる述べたときの気持ちは、イエス様から「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」という言葉をうけ、どこかに、これから自分がそうなるのかもしれないといった予感が働いたからでしょう。あるいは、そのような予感を払拭するかのように、自分に限って、そのようなことがあるはずがない、そういった気持ちで言っている言葉といった見方もできないことはありませんが、それは弱い自分が、卑怯者の自分が、内に存在していることを見つめたくないといった、そういう思いがあったのでしょう。

 キリスト者たちは、自分の弱さや罪を認めた者たちですから、そういった意味では、自分の破れを認めたのですから、そして、その罪を赦していただいた者たちであるということ、それだけに、とても人のことをとやかく言うことはできないといった認識を持っております。主の前に私たちは皆同じ弱き罪人、そして、キリストの十字架によって、赦された一人ひとりであること、そういった認識に立っているはずなのです。

 しかし、あのときのペトロや弟子たちは、自分たちの弱さに気づきたくはありませんでした。どこかで、裏切りの予感がすっと頭の片隅をよぎったと思いますが、それを認めることがとてもできなかったのです。そして、のちのペトロのように、自分を知らなかったのは、彼一人ではなく、多くの弟子たちがそうであっただろうと思います。

 ユダは、明らかにイエス様を金で売り渡し、裏切った人物です。イエス様も厳しかったと思います。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方がよかった」とまで、言われました。しかし、ペトロや弟子たちは、自分たちの命のために、致し方なく、イエス様を見捨てた人間たちであった、そう私たちは、ユダとペトロや他の弟子たちを区別します。しかし、イエス様を裏切ったという点では、50歩、100歩というのが正直なところです。イエス様を悲しませたという点では、他の弟子たちよりも、ペトロの方が大きかったかもしれません。

 ただ、マタイでは、この後の主の晩餐の場面には、まだユダもいたと思われますから、罪の赦しがユダにまで及んでいると理解できないこともありません。「一同が食事をしているとき、イエスはパンをとり、讃美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。取って食べなさい。これはわたしの体である。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。

 この場にユダもおりました。夜の食事からのつながりで、食事がひと段落ついたとき、イエス様は、このいわゆる記念的な主の晩餐をしたのでした。イエス様を裏切ったユダもまた、イエス様の赦しのなかにおかれております。日々、イエス様に従おうとしながらも、それをなすことのできない者ですが、結果として、イエス様を裏切ってばかりの私たちでしかないのですが、赦されているということを感謝のうちに受け止めてまいりたいと思います。

 ある意味では、今日の箇所は、どこかでイエス様を裏切ってしか生活できない私たちへの慰めと赦しが語られているところです。しかし、それだけではありません。同時に、何とかイエス様に従い続けること、踏ん張り続けることを教えている箇所でもあります。

 私たちは、今日、2017年度の活動計画と予算案について、話し合いをします。冒頭では、ミッションステートメントを決議します。そこには、直接の言葉としてはありませんが、内容的には自由と多様性という、私たちの教会が大事にしてきた、私たち教会の理想を謳っています。自由を愛し、多様性を重んじることは、イエス様から教えられていることだと信じてまいりました。そのような教会をこれからも目指し、私たちは歩んでいこうとしています。

 その理想を成し遂げようとして、苦闘する日々であるかもしれません。キリストに従おうとして、結果としてはそれが成し得ず、逆のことをするような歩みであるかもしれません。しかし、それをわかっておられ、赦してくださる主です。そして、それでも私たちが、従いつつ歩むことを望んでおられる主でもあります。