礼拝説教

4月16日(イースター礼拝)

 マタイによる福音書 28章1〜10節

 

キリストは死者の中から復活された

 

平良 師

 復活のお話は、マタイによる福音書では、マグダラのマリアともう一人のマリア(おそらくこのもう一人のマリアとは、27章の56節にでてくるヤコブとヨセフの母マリアと思われます。これは、一説には、イエス様の母マリアだったのではないかとも言われています)が、イエス様の納められている墓へ行き、そこで天使の御告げを聞き、それから弟子たちのところへ行く途中に復活のイエス様に出会ったという話から始まります。

 そして、その前後に、他の福音書にないお話として、祭司長やファリサイ派の人々が、イエス様が十字架におつきになり墓に葬られた後、イエス様の弟子たちが仕組むであろうイエス様の復活話によって、民が混乱に落とされるのではないか、というよりも、自分たちが不利な状況になるのではないか、ということを恐れて、策を弄しているお話がでてまいります。

 祭司長やファリサイ派の人々が考えたのは、次のようことでした。彼らは、イエス様が、生前、「自分は三日後に復活する」と言っていたのを思い出しました。例えば、マタイ20章の17節からのところには、イエス様がこのように弟子たちに言われています。「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」。

 こういった話を祭司長たちも知っておりましてので、そのことについて、おそらく弟子たちが、墓の中に葬られたイエス様の死体を盗み出して、「イエスは死者の中から復活した」と人々に言いふらすつもりでいるのではないか、という心配をしたのでした。それで、彼らは総督ピラトに番兵をつけて墓をよく見張ってくださいと、お願いに行きました。

 彼らは、そうしないと、人々は前よりもひどく惑わされることになるからだと言ったのでした。ピラトは、あなたたちにも、番兵はいるはずだから、彼らにしっかりと見張らせたらよいではないかと言いまして、それで、祭司長やファリサイ派の者たちが、自ら墓へ出向き、墓を封印して自分たち配下の番兵をそこにおいたのでした。

 それから、安息日が終わって週のはじめの日の明け方、つまり、日曜日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアとが、墓を見に行きました。すると、地震が起こり、天使が現れ、墓のふたとなっていた石をわきへころがし、その上に座りました。その姿は、稲妻のように輝き、衣は雪のように白かったといいます。地震がおこったという記述は、マタイにしかでてきませんが、ちなみに、今日は、丁度1年前の熊本地震の本震の日ですね。そして、1年前の4月14日の受難日は、最初の大きな地震がありました。

 地震は神様の創造の秩序によって起こるものであって、ご意志とは関係がないようにも思いますが、イエス様の死と復活にまつわるマタイにおける地震は、神様の十字架上のイエスの死に対する嘆き、そして、復活のこのうえなき喜び、そのようなことと関係しているかもしれません。さて、番兵たちは、恐ろしさの余り、震え上がり、死人のようになりました。

 復活があったときのこの情景は、イエス様が、十字架におかかりになったときのようすとは、正反対であるかのようです。十字架におつきなったときにも、地震は起こりましたが、暗黒が地上を包みました。しかし、復活されたこの日、ここには、眩いばかりの天使がおり、復活を告げ、それを見ている番兵たちがあの時とは逆に死人のようになっています。

 天使は、婦人たちに「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。つまり、そこには、イエス様のご遺体はなかったということです。墓は空っぽで、横たわっているはずのイエス様の遺体はありませんでした。

 祭司長やファリサイ派の人々が、弟子たちは嘘をつくであろうといったのですが、真実、イエス様は甦ったことをそのあとの出来事と婦人たちと天使の会話では告げようとしています。そして、何よりも墓の中は空っぽであったことを強く印象付けようとしています。イエス様は確かに復活なさったのだということです。

 それから、その場面にいて、一切のようすを見ていた番兵は、エルサレムに帰り、祭司長や長老たちにそのことを報告するのでした。ところが、祭司長や長老たちは、番兵たちの話を聞いたはずでありますが、彼らはそのことをどう理解したのかはわかりませんが、復活したという話は少なくとも信じようはしませんでした。

 彼らは、相談して、多額の金をこれらの番兵に与えて「弟子たちが夜中にやってきて、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と話をするようにと彼らに逆に偽りの証言をするように仕向けたのでした。そして、「この話は、今日に至るまでユダヤ人たちの間に広まっている」と聖書は説明しています。

 つまり、初代教会の人々が、イエス様の復活を宣べ伝えていったとき、それは弟子たちが死体を墓から盗み出して作った自作自演の作り話ではないか、いわゆる弟子たちのでっち上げではないか、という反論があった、そういううわさが持ち上がった、それも少なからぬの人々の反応がそうであったことを物語っております。それで、マタイは、そこらの真相を解き明かそうとして、彼が保持していた伝承をもとにこのお話を聖書に載せているのでしょう。

 私たちにとって、イエス様が復活なさったということは、最高に重要なことです。イエス様が十字架におつきになられたことは解釈としてとらえることができますが、復活されたことを信じることは、それもある意味では解釈をすることができますが、まともに、復活を信じるか否か、二者択一的なものであり、私たちにとっては、それは人生の大きな賭けとなります。

 つまり、かつて十字にかかった男がいたということを信じることと、かつて、十字架にかかって死んで、三日後に復活した男がいたという話を信じることとは、桁違いに違う話です。復活のお話は、常識的にはありえない話なのです。かつて、十字架にかかり殺害された男がいた、後の人々はこの男をメシア、キリストと捉えたという話は、一人の男が十字架にかかって死んだことをめぐってのその男に対する解釈だとも言えるでしょう。

 しかし、復活したという話自体は、それは常識的にはありえないことなので、ほんとうに復活したのかどうか、それは信じるか信じないか、というところに尽きるのではないでしょうか。だからこそ、聖書は、繰り返し、イエス・キリストは復活したのだと、私たちにこれでもかこれでもかと告げているのです。

 弟子たちが死体を墓から盗み出したというのは、常識的に誰もが納得のゆく話です。しかし、さもありそうな復活の裏話ともいえるものを強く拒否して、イエス様は真実に復活してのだとマタイは、否、聖書は告げるのです。

 ところで、どのようにして、今の私たちは、この復活のイエス様に出会うことができるでしょうか。4つの福音書の中には、悲しみにくれ墓場に行ったときにであった婦人たち、また、婦人たちから、イエス様がご命令なさったと言われて、でかけていったガリラヤの山でイエス様に再会した弟子たち、落胆してエマオへ向かっていた途上でイエス様にあった弟子たち、エルサレムの街にある建物の一室で隠れるようにしていたところに来られたイエス様を見た弟子たち、また、復活のイエス様に出会ったにもかかわらず故郷に戻り、再び漁師となって漁をしていた弟子たち、それから、キリスト者たちを迫害し、捕縛するために息をはずませながらダマスコに向かっていたパウロなど、いろいろな状況のなかで弟子たちや女性たちがイエス様に出会っています。

 そこから、私たちが、どのようなときにこの復活のイエス様に出会うのかを考えることはできます。それは、こちら側の姿勢にもよるでしょうし、イエス様のお考えが先におありで、イエス様の方からの働きかけによって、出会わされるとも考えられます。

 ただし、今日は、マタイによる福音書のこの婦人たちがイエス様に出会った場面ですから、ここから主に考えてみたいと思います。まず、マグダラのマリアという人物ですが、名前まででてくるこの女性は、いったい何者だったのかということです。マタイによる福音書では、27章の56節に、イエス様が十字架におかかりになって死んだとき、大勢の婦人たちが遠くからようすを最後まで見守っていたことが書かれてあります。

 その中におりました。男性の弟子たちの姿は、どこにもありません。そこらにはいないのです。彼らは逃げ去って、どこかに隠れていたというのが、適当かと思います。このときの大勢の女性たちというのは、ガリラヤからイエス様に従ってきていた女性たちであって、「その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた」とあります。

 つまり、名前のでてくるこれらの女性たちは、女性たちのなかでも主だったイエス様に近い者たちであったことがわかります。そして、墓にイエス様が納められたときも、そこにおりました。「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」とあります。彼女たちは、イエス様のことが忘れられず、或いは、遺体のことが心配で、そこにたたずんでいるといったようすです。

 ですから、安息日が終わった週の初めの日の明け方に、墓に見にいった、マグダラのマリアともう一人のマリアというのも同じ人物で、もう一人のマリアとは、ヤコブとヨセフの母マリア、イエス様の母マリアだったと思われます。ところで、マグダラのマリアというのは、ルカの8章2節では、「7つの悪霊を追い出して病気をいやしていただいマグダラの女と呼ばれるマリア」とでてきます。

 この女性が、イエス様と出会うまでは、多くの病をもってどんなに苦しんでいたかがわかります。イエス様は、彼女を病や気持ちの患いから解放してさしあげました。それ以来、イエス様から離れることなく、イエス様が行かれる宣教の場所に、ずっとこのマグダラのマリアはついてきていたのでしょう。

 男の弟子たちが、イエス様がゲッセマネの園で捕えられたあと、たちどころに逃げ去って、そこらには姿が見えないのとは対照的に、ガリラヤからついてきていた大勢の女性たちは遠くからイエス様を見守っておりました。そして、墓に納められたときもまた、マグダラのマリアとヤコブとヨセフの母マリアは、その墓に向かってずっと佇み座っておりました。そして、週のはじめの明け方には、また、やってきたのでした。

 マタイでは、墓を見に行ったとしか書いてありませんが、他の福音書にあるように遺体に香油を塗りにいったのかもしれません。墓を見に行ったというのですから、とにかく、イエス様のことが忘れられない、死んでもなお、イエス様のことを求めている、そういった女性たちでした。そこに、大きな地震がおこり、天使が現れたのです。

 そして、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」といって、イエス様が横たえられていた場所を示したのでした。復活のイエス様に出会えるのは、このように求める気持ちが第一に必要なのだろうと思います。

 イエス様を求め、飢え渇く心が必要なのだろうと思います。弟子たちが、イエス様を見捨てて逃げ去っても、彼女たちは、そこに踏みとどまり、熱心にイエス様を求めたのではないでしょうか。その結果として、復活のイエス様との出会いが、用意されたのではないでしょうか。

 ところで、私たちは、日常の生活のなかで、どのように復活のイエス様と出会っているでしょうか。祈りのときに出会っている、それはあります。

 学院の創立者のC.K.ドージャー先生の家訓といったらいいのでしょうか。そのようなものが、記録として残っています。一つは、イエス様が家族の頭首であるということです。二つ目は、イエス様が特別のお客として、家族の食卓にいつも共についておられるということです。三つ目は、イエス様は、いつも家族の間で交わされる会話を一つももらすことなくすべて、静かに聞いておられるということです。復活のイエス様が、いつも共におられるというイメージの一例です。

 マタイによる福音書では、インマヌエルの神が、説かれます。神様は、我々と共におられるという意味です。弟子たちが、約束のガリラヤに行き、そこで指示されていた山に登って、イエス様と出会われたとき、イエス様は最後にこのように言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。日々の生活のなかに、いつも共におられるイエス様に向かって、私たちは祈っています。そして、いつも共におられるということをどのように私たちは体験しているのでしょうか。

 先ほどのC.K.ドージャー先生の家訓などは一例です。しかし、祈りというのは、確かに、イエス様がそこにおられることが前提となっています。祈るとき、福音書のなかでは、いろいろな場面場面のイエス様のことを思い浮かべながら、私たちは祈っています。それは、復活後の天に上げられて神様の御国におられるイエス様だけのイメージではありません。

 弟子や罪人たちと食事をしているイエス様を思い浮かべ、ザアカイや姦淫の現場で捕えたられた女性やシカルの井戸端でサマリアの女性としゃべっているイエス様や多くの人々の病を癒されているイエス様、たとえ話を語っているイエス様や、5000人に給食をされたイエス様、もうさまざまなイエス様を思い浮かべながら、私たちはイエス様に祈りを捧げているのです。

 十字架におつきなっているイエス様もまた思い浮かべることは多いことでしょう。そのイエス様に向かって祈っていることも多々あります。それがつまり、いつも共におられるイエス様との体験なのでしょう。だからこそ、イエス様は、いつも共におられるのです。

 わたしが苦しいときには、苦しいときにふさわしいイエス様の姿を私たちはイメージするのです。励ましてくれるイエス様、共に泣いてくださるイエス様であります。それだけではありません。今、ここで聖霊として働いてくださる復活のイエス様を思い浮かべることもできます。私たちのただなかに今、おられるイエス様をイメージすることもできます。復活されていなければ、何もないのです。

 イエス様は、2000年前に生まれ、死んだ、ただの偉人ではありません。神であり、神の子であり、今ここで働いておられる聖霊であられるのです。生きて働かれ、私たちと共にずっといてくださるお方です。私たちは、自分の人生の歩みをとおして、また、そのお姿をいろいろな人々との出会いや関係において知らされることも、見ることも随分とあります。

 罪の結果としての死という滅びは、イエス様の十字架と復活によって取り除かれたと、私たちは今日もまたイースターの朝に、この使信を聞きました。

 救いは、イエス様ご自身が、ご自分の身の安全を確保し、余裕のあるなかでなされたものではなく、イエス様の苦しみ、痛み、命の喪失のなかで与えられたものでした。私たちもまた、他者への手伝いや救いの御手を差し伸べるとき、それは私たちもまた自らの苦しみ、痛み、いろいろなものを失うなかでしか、与えることができないものであることをおぼえてまいりましょう。

 そして、私たちが、他者への救いにかかわるお手伝いをしたとき、それでよいと言われるイエス様、神様がそこにこそおられる、それこそが復活の出来事であるかもしれないのです。つまり、神と人とを愛しなさ、そこには確実に復活のイエス様が共におられるということです。


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