礼拝説教

4月2

 マタイによる福音書 26章36〜46節

 

孤独の中で祈る

 

平良 師

 イエス様のゲッセマネの祈りは、とても孤独なものでした。ゲッセマネの園に弟子と一緒に来られたイエス様は、ペトロとゼベダイの子のヤコブとヨハネたち以外はそこにおいて、4人でさらに進んでいかれました。しかし、「そのとき、悲しみもだえ始められた」とありまして、イエス様のこれまでにない内面の苦しみが読み取れます。

 人として、この世に来られたイエス様ですから、当然、人としての弱さもまた抱えておられると考えるのが自然だと思います。その悲しみは、十字架において殺されるという悲しみであり、また、弟子たちをはじめこの世における人々との別れを思っての悲しみであったかもしれません。みもだえするほどに、イエス様は苦しんでおられたのでした。そして、あるところまで来たときに、「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」とペトロたちに命じ、ご自身は少し離れて一人で祈られました。

 うつ伏せになられて、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。うつ伏せになられて祈られたということでも、イエス様の切実で必死なお姿がみてとれるかと思います。そして、それは父なる神様への謙遜なお姿でもありました。イエス様にとって、これからほんとうに厳しい試練のときが始まるのですが、それを意識されて、必死になられて祈る姿が描かれています。

 私たちは、イエス様から、多くを教えられる者たちですが、ここでは、祈りの本質を教えられます。それは、祈りというものは、最後は、たった一人でしか、神様と向き合うことができない、そのような中でしか、真実には祈りえないものであるということです。イエス様は、はじめ弟子たちと共に祈りたかったのではないでしょうか。

 しかし、否、そうではないとお感じになられ、次に、弟子たちの中でもイエス様が選んだ3人を連れて、彼らと共に祈りの場にいきたいと考えたのかもしれません。ところが、否、それでもない、最後は自分一人で、父なる神様と向き合うしかないとお考えになられたのでしょう。でも、弟子たちには、近くで、このような自分と気持ちを共有して欲しかった、見守って欲しかったのでしょう。

 このとき、イエス様は、ペトロたち3人には、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と、言われました。イエス様が、死ぬほどに悲しいと心のうちを語られているのはもちろんここだけです。ここを離れずというのは、自分のそばにいて欲しいと言われているのです。そして、わたしと共に目を覚ましていなさいとは、ある意味では、共に祈っているようにと願われたのではないでしょうか。ここでは、私たちキリストに従う者たちに、執り成しの祈りによって、人は支えられることを示されておられるかのようです。

 イエス様の祈りは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」というものでした。ここでも、人としてのイエス様のお姿を垣間見ることができます。イエス様は、いよいよご自身の死が近づいてきたとき、そのことを心の底からは受け入れることはできませんでした。

 「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と願われたのです。「この杯」とは、十字架にかかって殺害されるということです。できることなら、このことは避けて欲しいというのが、イエス様の本心でした。しかし、イエス様のお祈りは、それで終わりではありませんでした。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」という祈りを添えられました。神様の御心を願うということを、イエス様は、主の祈りのなかで弟子たちに教えられました。

 「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。ここでは、イエス様自らが、そのように神様の御心を祈られております。よく言われることは、このゲッセマネの園でのイエス様のお祈りは、あの主の祈りで教えられたことを自らの姿勢をもって示しておられるということです。他の一例としては、神様のことを「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけることを教えられましたが、父というのは、アッバですが、幼子が父親のことを呼ぶときの呼び方であって、御父ちゃん、パパとかいう意味です。そのように神様の存在を何か恐ろしくて遠い近寄りがたいお方としてではなく、父親のように、身近かで、信頼し、安心して何でも話すことができ、時には甘えることもあるでしょうが、そのような存在として呼びかけてよろしいと、神様とあなたたちはそのような関係性にあると、イエス様は弟子たちに教えられたのでした。

 さて、このときの悲しみ、みもだえさえしているイエス様のその切実な苦しい思いが、ペトロたちには十分に伝わりません。彼らは、イエス様が戻って御覧になると、眠っていたのでした。イエス様が、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここをはなれず、わたしと共に目を覚ましていなさい」というようなことを言われたことは、これまで一度もなかったはずですし、自分たちだけ3人をさらに選びここまで連れてこられたということは、それだけでも、のっぴきならぬ事態になっていることはわかったと思いますが、彼らは、起きていることができませんでした。

 イエス様は、ペトロに「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言われました。イエス様は、インマヌエルの神、神は我々と共におられる、そのようなお方として、マタイによる福音書では描かれていますが、弟子たちの方は、イエス様と共にいることができません。ずっと共におられることがおできになるのは、イエス様だけであることがわかります。私たち人間には、それができない。人間には、他者とずっと共にいることなどできない、そういう人間の限界のようなものを示されているように思います。

 しかしながら、それでもやはり、ここでは、祈りを分かち合うという願いをイエス様はもっておられ、できないかもしれないけれど、他者と共に祈ることの大切さも何とか伝えようとされていると思えるのです。他者の祈りを自分の祈りとして祈ることを教えようとはされているのではないでしょうか。そうでなければ、どうして、弟子たちを一緒にゲッセマネの園に連れていく必要があったでしょう。

 イエス様が、三度も、つまり何度も同じことを繰り返されたのは、祈ってはペトロたちのところに戻ってきて、目を覚ましているかどうかを確認されたのですが、それは、やはり彼らが自分の願いどおりに共に祈りのときを過ごして欲しかったからです。ペトロたちが、起きていようが、寝ていようが、このときのイエス様にはもう関係なかったのではなくて、大いにそれは必要なことでした。

 イエス様は、イエス様が、必死になって父なる神様にこの杯を取り除けてくださるように願っているときに、その祈りを分かち合うことのできない弟子たちであって欲しくなったのです。自分の父なる神様に定められたときを、最後には、御心が行われますように、と祈るイエス様であられましたが、その葛藤のときを共に目を覚まして過ごして欲しかったのです。しかし、それは最後まで叶いませんでした。

 私たちの教会には、昨年から祈りのミニストリーができました。現在76名の方々がこのミニストリーに加わっておられまして、毎週金曜日の朝7時頃におよそこれから1週間の間の教会の活動や教会員のこと、これは、主に私と森牧師が情報を提供していますが、それ以外にも、それぞれのメンバーから寄せられる祈りのリクエストを掲載して、共に祈りにおぼえ、祈り合っております。

 それだけではありません。緊急を要することが発生した場合でも、祈りのリクエストがあれば、それを皆さんに連絡し、祈りにおぼえてもらっているのです。そうやって、祈りを共有していることで、自分の個人的なことを多くの平尾教会の兄弟姉妹たちが、神様にお祈りしてくださっているのだと心強く思わされ、また、私は一人ではないと励まされているのです。

 そして、平尾教会の一員であることをうれしく思っているのです。こういうときに、教会の者たちにとっては、いかにこの世のキリストの教会が必要なものであるかがわかります。それでも、最後は、一人で祈るしかありません。あの弟子たちのように、私たちは弱く限界を持っております。

 祈りの課題が来ても、24時間祈り続けることはできません。せいぜい、金曜日の朝と、緊急に来る祈りの課題に対して、そのとき祈ることくらいしかできないのです。本人には100の切実さでも、他人には、残念ですけれど10くらいの大きさでしか、感じられないのがほんとうのところかもしれません。イエス様が、あれほど、ペトロたち3人にお願いしたことを彼らはなしえませんでした。イエス様は「心は燃えても、肉体は弱い」と、彼らの気持ちのあることは認めつつも、肉体の限界には勝てないという、その人の弱さもわかっておられました。それじゃあ、仕方がないとは言われませんでした。あくまでも、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言い続けられたのでした。

 いろいろな意味で、まったく孤独で、父なる神様と向き合わねばならないイエス様でした。それこそ祈りの本質でしょうけれども。イエス様は、これから起ころうとしていることを回避してくださることを願われましたが、しかし、最後には、御心が行われますようにと、すべてのことを父なる神様にお委ねするのでした。イエス様は、この祈りを三度繰り返されました。祈りの度に、弟子たちのところに戻って来られました。

 そして、彼らが自分と同じように必死になって祈っていることを願われ、期待して戻ってみると、彼らは、その度に眠っておりました。「ひどく眠かったのである」とあります。イエス様の願いよりも、自分たちの体の生理的現象に負けてしまったのでした。イエス様の孤独な思いというのは、それだけに、とても大きなものであったでしょう。このようなときだから、一緒にいて欲しいと思われたわけですが、それが適わないのです。孤独のなかの祈りというのが祈りの本質です。

 さて、イエス様のここでのお姿から、もう一つ、私たちは教えられることがあるのではないでしょうか。それは、同じ内容で、祈りを三度もされたことです。否、何度もされたのでしょう。祈って、はい、結論がでましたというわけにはまいりません。祈って、すぐに納得できましたというわけにはまいりません。祈って、すぐに願ったような結果を得ましたということもそんなにはありません。これは、どういうことでしょうか。これは、どちらを選んだらよいのでしょうか。神様の御心はどちらなのでしょうか。私たちは、同じことで、何度も、何度も、祈らなければならないのでしょう。簡単に諦めてはならないのです。

 しかし、最後には、神様の御心が行われることをイエス様は願われました。私たちもまた、そうするようにと教えられているのではないでしょうか。そして、その祈りは、叶えられました。神様の御心を願えば、そのことは叶えられます。それだけは、誰が何と言おうと、そうだとしか言えないでしょう。あなたが、神様の御心がなるようにと、最後に祈るならば、その祈りは叶えられるのです。そんなの当然じゃないか、と言われるでしょうか。そうかもしれません。しかし、間違いなく、神様の御心を願うその祈りは、叶えられます。その御心を願う祈りが、嫌々ながらのものなのか、感謝のうちにそうされるのか、それこそ、それについては私たちの信仰としか、いいようがないのですけれど。

 イエス様は、3度目にペトロたちのところに戻ってきたときに、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」と言われました。一方で、またもや眠っている弟子たちをご覧になって、落胆されたのですが、しかし、その時が現実に来たことを悟られました。そして、イエス様は言われたのです。「立て、行こう。わたしを裏切る者がきた」。

 イエス様がまだ話しておられる間に、ユダをはじめ、祭司長たちや長老たちの差し向けた大勢の群衆が、剣や棒を持って、一緒にやってきたのでした。イエス様は、この杯を取り除けてくださいと祈られつつ、そして、しかし、神様の御心が行われることを祈られました。「立て、行こう」。この言葉には、神様の御心に生きる者の潔さがうかがわれます。自分に備えられている状況を嫌々ながらではなく、積極的に受け入れていくお姿がありました。

 御心を求め、御心に従って生きることを選び取るとき、私たちは、このときのイエス様のように、「立て、行こう」という潔い人生を送ることができます。そして、神様の御心に与るということは、神様のお与えになる励ましでや恵み、勇気や平安、忍耐する力、すべてを総称していえば、神様の愛に私たちが包まれることだと思うのです。