礼拝説教

4月23

 ローマの信徒への手紙 1章1〜17節

 

正しい者は信仰によって生きる

 

平良 師

 パウロは、自分のことをキリスト・イエスの僕だと自己紹介しています。僕、奴隷ですから、主人であるイエス・キリストに絶対服従を約束する身の上として、自分のことをパウロは認識しています。それは、誰かにそのようにさせられたのではなく、自分自身の選びとして、そのように自分のことを決めたのです。

 奴隷は、主人の所有物であり、命の保障といった点では乏しく、家畜と同じような扱いを受けることも多々ありました。奴隷ですから、自由はありません、つまり、自分の好き勝手に行動することは、許されませんでした。そこにあるのは、主人への絶対服従だけでした。パウロは、自分の存在は、まさに、そのような者である、イエス・キリストという主人に絶対服従することこそが、自分のなすべきことだと考えていました。

 実は、そこにこそ、ほんとうの自由がもたらされることを彼は知っていたのです。例えば、ガラテヤの信徒への手紙5章13節「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせず、愛によって互いに仕えなさい」と言っております。

 そして、「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」と言っています。こうした理解は、キリスト者であれば、多くの方々が、持っている思いでもあるでしょう。自分もまた、選び出された、神様の福音のために選び出されてキリスト者となった、ということです。

 神様の選びに与ったという理解ができることは何という恵みでしょうか。神様が、聖書のなかで、いろいろな人間を選び出され、ご自身の御用のために用いられます。それと同じで、このような自分をも、神様は選んでくださった、何かの取りえがあるわけでもない私を、神様は選んで神様の福音のために、用いてくださるのです。

 パウロは、はじめ、キリスト者たちを迫害していたのですから、その神様に反していた彼が選びに与るということ自体、この世の常識的な考えではありえないお話ですが、それが、そうではない、そのパウロを神様は福音を伝えるために用いられました。この私もまた、とても、選びに与れるような者ではないし、何かの秀でたものがあるわけではないけれど、選んでくださった、そのことは計り知れない恵みでなくて、何でしょうか。

 そして、自分の使命を「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」と理解しています。パウロは、自分の使命は、異邦人への伝道にあると考えています。イエス様の弟子たちのなかには、イエス様が救い主キリストであること、このお方の十字架と復活の出来事を告げ知らせるべき対象は、まずは、同じユダヤ人たちだと考えた者たちもおりました。

 しかし、それに対して、パウロは、自分の使命は、異邦人への伝道でした。そして、ローマ人たちにも、あなたたちはイエス・キリストのものとなるようにと召された人々であることをパウロは告げます。パウロは、祈るときにいつもローマの信徒たちのことを思い起こし、いつか神様の御心によってローマの彼らのところへ行きたいと願っておりました。しかし、その願いは、今日まで妨げられてきたと言います。

 どういうことがあって、それが妨げられてきたのかは、この時点では書かれてありませんが、あとの方を読んでみますと、おそらくこういうことがあって、それができなかったのだろう、と推測できる事柄は書かれています。

 しかし、パウロがローマに行って福音を伝える前に、既に他のキリスト者たちによって、その伝達はなされておりました。それが、パウロの考えたような福音の理解だったのかどうかはわかりません。ひょっとしたら、キリスト者となっても、相変わらず律法を大切にすることを教えるような内容であったかもしれません。

 パウロが、ローマの信徒たちのところへ行きたいと願っていた理由は、「あなたがたにぜひ会いたいのは、霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」ということでした。

 まず、霊の賜物とは、何かということですが、これはコリントの信徒への手紙一の12章のなかで展開されています。教会において、神様が聖霊によって、信徒各自に分け与えられる多種多様な能力(知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力など)であり、それらは自分自身のためにではなく、本来、他者の益のために、お互い分かち合い、助け合うべき信者の共有財産であるということです。

 コリントの信徒への手紙一の12章の7節には、「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」とありまして、この全体の益というのは、教会全体ととるのが、適当かと思われます。ですから、霊の賜物というのは、教会を造り上げていく上で、信徒一人一人に与えられている賜物のことを言うのでしょう。

 パウロは、その霊の賜物とおぼしきものをいくつか挙げております。先週の祈祷会でも話題として出されたのですが、この12章には、病気を癒す力、預言する力、異言を語る力など、何か特別の賜物のことを言っているかのようですが、それだけではなく、例えば、誰それに分け隔てなく自然に教会に誘うこと、また、掲示板の案内を書くこと、お掃除をすること、食事を用意することなど、どれもこれも、教会を作っていくためになくてはならないものであって、そうしたそれぞれが与えられている賜物を生かし合いながら教会はできているのです。その賜物にまた優劣もありません。こうした一人一人の働きが合わさって、イエス・キリストの教会はできあがっております。

 そして、パウロは、福音を恥としない、と述べます。これはパウロの信仰告白とも言えます。当時、キリスト者たちに対する迫害もあったわけですから、それに対する断固たる姿勢がうかがわれます。パウロは、「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と言っています。

 福音とは、よきおとずれ、という意味です。旧約聖書では、それは神様の救いを意味していました。ところが、イエス様は、十字架におつきになられました。十字架にかかる者は、神様から呪われた者という理解のもとにあった当時のユダヤ人たちにとって、このような人物が救い主であるはずがない、また、十字架におつきになったイエス様に対して何の奇跡も起こらない、神様の救いの御手は差し伸べられない、「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれて死んでいったこのような男が救い主であるはずがない、まさに、神様に呪われ、見捨てられた者以外の何者でもない、そう思ったことでしょう。

 それなのに、キリスト者たちは、このお方こそ救い主と言っている、そのようなバカな話はない、そうユダヤ人たちは思ったことでしょう。また、この福音という言葉は、ギリシア語では、戦争に勝利し、平和をもたらす神的王の誕生ないし即位に関するよき知らせを指しておりました。岩波訳の用語解説をみますと、この福音という言葉は、先の解説に続いて、「キリスト教はこの皇帝礼拝的単語を、旧約的伝統で満たし、イエス・キリストの救いの報知を意味する独自の述語に転じたことになる。

 さらにこの語は、後にはイエスの生と死(及び復活)を描いた物語をも指すようになった」とありました。それであれば、ギリシア人にとっても、イエスと言う人物は、まったく力のない、或いは、権力にたてついて十字架にかけられたということで、とても愚かで、戦に勝利するなどといったイメージからは遠いので、この人物を自分たちの皇帝と同じような救い主とはとても考えられるものではなかったと思います。ですから、パウロは、「わたしたは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と言っているのです。

 現代に生きる私たちはどうでしょうか。福音を恥としない、つまり、福音を語り伝える上で、臆することはありませんか。十字架の意味を語ることはできる方でも、イエス様のご復活を真顔で語ることはできますか。そこにテレや恥ずかしさといった思いはありませんか。この「わたしは福音を恥としない」という信仰の告白は、いつの時代もはっきりと述べることが求められています。これはときと場所によっては、命の危険さえ覚悟しなればなりません。

 ところで、どうしてパウロが、ローマの信徒たちのところへ行きたいと考えたかということについて、さらに深く考えてみたいのですが、「あなたがたにぜひ会いたいのは、霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです」とあります。霊の賜物とは、先ほど申したようなものですが、パウロがもっていて、ローマの信徒たちがもっていない霊の賜物とは、いったい何だったのでしょうか。預言する力だったのでしょうか、知恵や知識の言葉だったのでしょうか、教師としての指導力だったのでしょうか。

 はっきりしたことはわかりません。ただ、その後の言葉を読みますときに、決して、パウロが、一方的にこちら側はもっている人、あなたたちは足りない方々といった意識からものを言っているのではないことは確かです。というのは、次の言葉「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」とあるからです。これは、互角の関係でものを言っています。

 つまり、パウロは、ローマの信徒たちに、霊の賜物をいくらかでも分け与えて力になりたいと思っていますが、同時に、自分もまた、ローマの信徒たちから、霊の賜物をいくらかでもいただき、力をもらいたいと思っているということです。そして、互いに、励まし、励まされたいと思っているのです。

 これは、私たちが、現在、こうした礼拝のなかで、同じ信徒の方々の証しを聞かせていただいたときに、励まされるということが起こる、そのことだと思われます。あるいは、礼拝のなかでなされる証しだけでなく、教会員同士何かのことで会話しているとき、信仰ある者として、イエス・キリストに従うからこそ、自分はこのように発言した、このように振る舞ったといったお話しを聞くときも同じです。何気ない話のなかに、主に従う者の姿を見たとき、私たちはとても励まされます。教会というところは、そういうところです。

 最後に、17節の「正しい者は信仰によって生きる」とあります。青野先生が訳された岩波訳では、「信仰によって義(とされた)者は生きるであろう」となっています。これは、いわゆる、正しい人というのは、当時は律法を守って生きている人という理解がありましたから、そうではない、パウロは、信仰によって人は義とされ、そして、その人は、生きることになるであろうという、つまり、いのちを保つ、そのようなことがうたわれているのでしょう。

 私たちは、自分の行いに対しては、これほどまでに自分はだめな人間なのかと、自分に対してある意味では絶望した者たちです。そして、イエス・キリストによって救いを得ました。信仰によって生きる道を選びとりました。

 否、そのように選び出された者たちです。そのような意味で、正しい者たち、義とされた者たちです。そして、イエス様は主なり、神様であられる、そのような理解に至った者の一人です。この主に対して、僕となって従ってまいります、そうやって、命をこれからも得てまいりましょう。


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