礼拝説教

5月14日(家族の日礼拝)

 マルコによる福音書 3章31〜35節

 

聖書の教える家族とは

 

平良 師

 家族の日の礼拝ということなので、今日は、家族について聖書から考えてみたいと思います。「家族は互いに助け合わねばならない」。この言葉を聞いたとき、なかなかいいことが書かれている、そう思われる方がほとんどでしょう。しかし、これは、聖書の言葉ではなく、ある党の改憲草案の婚姻等に関する基本原則についての憲法24条第一項です。

 これをみて、多くの方々は、いいことを言っていると思うのではないでしょう。否定する理由を見つけることの方が難しいと思います。特に、今のような社会のなかでは、介護など、家族が助け合って生きていくことが求められているのではないか、と思うからです。生活に困っても、国家に保護を求めるのではなく、家族の間で何とかする方向で、考えていった方がいいのではないかと思ったりもするからです。

 家族のなかで虐待などが起こるのは、思いやりが育っていないからであって、ほんとうに互いに助け合わねばならない、と憲法で決めてもらって、教育に力を注いだ方がいい、と思うからです。この憲法がとおれば、これに基づいて法律ができ、今まで、享受していた福祉や教育に関することが、非常に脆弱になってしまうことも考えられます。

 しかし、こういったことは誰が言うかで、随分と趣もかわってくるものです。私が結婚をした当初、私が通っていた教会の牧師のY先生は、ときどき私に、平良君、夫婦仲良くだよ、仲良くだよ、とよく言われましたが、そういう次元のお話とは違います。その牧師から言われても、そこには愛情がありますし、まさにその通りなので、私はすみません、としかいいようがありませんでした。

 しかし、国家が、家族は互いに助け合わねばならないというとき、介護とか、家族間の生活の保護とか、家族間に起こる虐待などといったことは、家族で解決すべきものであって、国家がこれらのことに関してお金を出すということについては、責任を持ちたくないという意図が特に昨今は読み取れるのです。

 財政的に何兆もの借金を国民に負っている国家としては、これ以上福祉とか教育にお金をかけられない、できるだけ抑えたい、そのような力が、国民が油断をしてしまうと、国家というのはどうしてもそのように傾いてしまう、そのような構造や思想が今強く権力の側に働いているのかもしれません。

 そもそも、国家が、憲法でこのようなことを決めていいのかということもあるでしょう。「家族は互いに愛し合わなければならない」これも聖書の教えに近いわけですが、誰が言っているのかで、意味内容や意図されていることは大きく違ってくるのです。

 それであれば、例えば、雇用主と雇用される労働者は、互いに会社の利益のために助け合っていかなければならない、このようなことを国家が憲法で決めたらどうでしょうか。一見、よさそうで、そうなると雇用される労働者に大きな負担が降りかかってくるというのは誰にでも予測のつくことです。

 人には、思想信条の自由がありますから、いわゆる人間の心のありよう、道徳倫理のところまで、国家が憲法を用いて踏み込んできてもいいかどうかは、十分吟味しなければならないでしょう。そもそも日本の憲法というのは、ご存じのように立憲主義に基づいてできておりまして、憲法の役目は、国家が国民の権利などを侵すことがないようとにと、むしろ守るようにと、国家にしばりを設けているのが、憲法だと言われているわけですが、この草案では、憲法によって、主権者である国民をしばる方向で創っているようです。

 ですから、この草案では、象徴としての天皇が元首(国家の首長<集団、団体を統率する長>、君主国は君主、共和国では大統領)となっております。

 さて、この24条というのは、現憲法でも、もともと婚姻についてかかれているもので、次のようになっております。「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本とし、相互の協力により、維持されなければならない。②配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」とあります。

 つまり、この改憲草案は、現憲法24条の前に、更に一項を設けておりまして、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」を加えているのです。それだけでなく、現24条の内容にも微妙に手を加えております。

 例えば、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」は「婚姻は、両性の合意に基づいて成立し」と、のみを削除しています。それは、当事者以外の第三者の関与をゆるすことが可能となるということです。

 また、「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関する」のところが、「家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関する」となっています。この24条の内容の変更に対しては、大いに問題があると言っている方々の主張は次のようなものです。

 それは、簡単に言えば、かつての家制度に戻ろうとしている向きがあるということなのです。戦前の家族については明治民法が用いられ、例えば、結婚も結婚相手も、決定権は「家長」(父や夫、男の子や男兄弟)にありまして、結婚は自分のことなのに、女性は自分で決められませんでした。そもそも女性は、人権も無いも同然でした。自分の財産も持てず、相続も夫から長男へ、といった具合でした。

 当時は「長子相続」で、男であっても次男以下には相続の権利がありませんでした。財産も、戸主(家の責任者)の権利も、すべて、長男だけに引き継がれるものでした。兄弟間の差別が公然と法制化されていました。

 もう一つ、戦前の日本の社会体制は、天皇制で、その中でも「家制度」は「天皇制」を下から支えるための仕組みでした。戦前の日本社会は、天皇を親、国民は「天皇の赤子」と呼ばれるこどもに見立てた「疑似(見かけが良く似ている)家族」。「家族」の中にはすべてを決める絶対的な「家長」がいて、家族みんなが家長に従うように、国には「天皇」がいて、国の「家長」である天皇の言うことは絶対でした。

 そういうヒエラルキー意識を、小さなミラミッドから大きなミラミッドに積み上げるように、植え付けたのです。つまり、「家制度」は、一番身近なところに差別をつくり、その構造を温存させる仕組みでした。戦前の日本に独特の、人権を破壊する制度でした。美しき日本の伝統というときに、このような古い家制度のもっていた男女の間に差別があった家族のイメージをもっている向きがまったくないとは言えないのではないでしょうか。

 ですから、一見よさそうに見える言葉「家族は助け合わなければならない」も、誰が、どの立場のものが語るかで、その意味内容は違ってまいります。その背後に横たわっている恐ろしいものを見抜かねばなりません。イエス様が、弟子たちに言われたように、鳩のように素直に、蛇のように賢くなければならないわけであります。

 やはり、家族に対する教えについても、これは国家が上から下にではなく、宗教や倫理道徳を考える場面で、考える必要があるのではないでしょう。

 それでは、聖書は、どのように家族のことを言っているでしょうか。今日の聖書の箇所では、イエス様の母マリアと兄弟姉妹たちがやってきて外に立ち、人を遣ってイエス様を呼ばせたときのことです。そのとき、大勢の人々が、イエス様の周りに座っておりました。イエス様のお話を熱心に聞いていたのでしょう。おそらく、そのとき、イエス様の母マリアと兄弟姉妹たちが、激しくイエス様のことを呼んでいたからなのでしょうか、そこにいた者たちが、「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と告げたのでした。

 イエス様は、そのとき、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答えられ、周りに座っている人々を見回して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われたというのです。逆に、神様の御心を行わないのであれば、それはたとえ血のつながった親、兄弟姉妹たちであっても、そうではないというのです。

 今の政権は、ヨーロッパの個人主義というのが、悪しき形で日本に入り込んだといって、今の時代風潮を非難します。確かに、個の自立、個の権利等については、ヨーロッパの思想、それは、つまり、キリスト教から獲得したものが多いと思います。しかし、本来、その個人主義というのは、神様と自分との関係を意識した人間が、持ち得るものではないのでしょうか。もし、神様との関係を意識しない個人主義であれば、それは、単なる利己主義と言えるでしょう。

 イエス様は、家族とは、神様の御心を行う人だと言います。それが、イエス様の考える家族という枠組みでした。例えば、第一に、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい、これらの言葉を行うこともまた、神様の御心を行うということになります。

 しかし、イエス様のお考えになられていた家族の関係には、これであれば誰をも納得させるのではないかと思う親子の関係について語られているものもあります。例えば、放蕩息子のたとえば話です。このたとえ話は、結論的には、人間の罪と神様の赦しについて、書かれているものですが、その内容は、まさに日常に見る親子の関係であります。

 父親は、生前に財産を分けて欲しいという下の息子に財産を分けてやります。この父親には、この息子の他にもう一人上の息子がおりました。二人の息子がおりました。父親は、申し出た弟の方に彼の受け継ぐべき財産を分けてやりました。彼は、それをもらって、遠いところへ行き、そこで放蕩の限りを尽くすのです。

 そして、無一文になったころに、その土地を飢饉が襲います。食べる物もなくなった息子は、おそらく異教の地だったのでしょうか、頼って身を寄せていた知人のところで、豚の世話をさせられます。彼は、ユダヤ人でしたから、汚れた動物として忌み嫌われていた豚の世話をさせられるというのは、非常な屈辱、苦痛だったことでしょう。しかし、生きていくためには致し方なかったのでした。

 ところが、そのようなことをしてもなお、十分に食べ物を与えられなかったとみえて、息子は、豚の食べるえさを食べて腹を満たしたいと思うほどでした。そこまで落ちぶれてしまったときに、ようやく彼は我に返り、父親のところへ帰ろうという気を起こすのです。

 父親のところへ帰り、わびをして、雇い人と同じでいいからおいてもらうと思うのでした。ところが、父親の方は、この息子が、まだ遠いところにいたのに、彼だと気づき、父親の方から彼のところへ走り寄り、首を抱いて、接吻したのです。この父親と子の関係というのは、まさに、この世の親子の関係ではないでしょうか。まわりが如何に、この息子に対して、お前の息子は放蕩息子だ、いわゆるできそこないの親不孝者だと言っていたとしても、この父親にとっては、自分の愛する息子に変わりはなかったのでした。

 彼は、帰って来た息子に前と同じように、息子としての証しとなる指輪をはめてやり、良い服を着せ、足に履物を履かせてやりました。そして、肥えた子牛を屠り、食べてお祝いをしたのです。この父親は言うのです。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と、父親にとって、この放蕩三昧をして帰ってきた息子は、それほどの喜びであり、祝に相当する出来事だったのです。

 この放蕩息子のたとえ話というのは、実は、神様と、罪を犯して神様に背を向け、神様から遠く離れてどこかに行っていた人間が、悔い改め、神様の許に帰ってきたという話です。つまり、神様と私たち人間の関係を言っております。

 そのとき、神様は、まだ彼が遠くにいたにもかかわらず、彼を目ざとく見つけ、神様の方から、この罪ある人間に近づき、彼を迎え入れるのです。それは、神様の私たち人間に対する罪の赦しが語られているのです。どのように、神様に背き、神様を忘れて、放蕩三昧な罪深い生活をしていたとしても、神様は、私たちのことをかたときも忘れることはありません。

 そして、私たちが、自分の罪を悔い改め、まだ遠くにいたときにとありますから、つまり神様から遠く離れていた、十分な反省ができていたわけではないけれどもということでしょうか、このような私たちのことを赦してくださったのです。先週述べましたように、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」という形で、私たちを赦してくださいました。

 家族というものも、本来、どのようなことがあろうとも、最後には、父親も、母親も、その子どもたちが犯した罪を赦してくれるものです。そこには、おそらく、痛みや苦しみが伴っていただろうことは、想像にかたくありません。聖書では、その痛みや苦しみに相当する出来事として、イエス様が十字架におかかりになって、神様がイエス様を十字架におつけになられて、私たちの罪を負う形で、私たちが赦されたということであります。

 聖書は、家族の在り方をとおして、私たちに神様と私たち人間の関係を教えてくれています。

 ところで、私たち教会員同士は、神の家族と呼ばれています。ですから、教会では、血のつながりはなくても、兄とか姉とか、と呼ぶわけです。キリスト者たちは、自分の罪を認め、悔い改め、洗礼を受けました。しかし、それに先立って理解したことは、神様がこの放蕩息子の父親のように、この私を赦してくださったのだと、そのことを信じたのです。

 一方的に、まだ、わたしたちが遠くにいたにもかかわらず、つまり十分な罪の反省がないときに、独り子であられたイエス様を十字架におつけになられて、私たちのことを赦してくださったのでした。そのことを信じる信仰によって、私たちは、神様からそれでよいとされました。このキリストが、私たちに、隣人を自分のように愛しなさい、と教えてくださり、イエス様がご自身が、神様がご自身が私たちを愛してくださってそのお姿をみるがゆえに、私たちは、この奨めに従おうとするのです。

 家族は、確かに、助け合い、赦しあって生きていくことこそが、うるわしいでしょう。しかし、誰が、そのことを言っているのかは、とても大事です。その言葉の源泉です。私たちは、イエス・キリスト、聖書の御言葉だからこそ、従順でありたいと思うのです。


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