礼拝説教

5月7

 ローマの信徒への手紙 5章12〜21節

 

キリストの恵の賜物により与えられた永遠の命

 

平良 師

 「一人の人によって罪が世に入り」という時の一人とは、アダムを指しています。アダムが神様の戒めを守らず、罪を犯したために、全人類に罪が入り、その罪によってすべての人間が死という滅びに至ることになりました。創世記の3章ですが、神様が具えられた園の中で、これだけは食べてはならないという木の実がありました。

 これは神様がアダムとエバにこれを食べると死ぬからと言われて、彼らに、与えられたたった一つの戒めでした。しかし、蛇がエバを誘惑し、彼女はその木の実を食べてしまいました。そして、それをアダムにもあげて、彼もついに食べてしまったのでした。人間は、神様によって創造された最初の人からして、神様の戒めを守ることのできないものなのです。

 こうした神様への背きの罪が、聖書が述べる罪なのです。そして、おそらく、つきつめて考えてみますときに、この神様への背きの罪は、聖書をとおしてしか、理解のできないものかもしれません。人間がいかに罪深いものなのかは、旧約聖書においては神様とイスラエルとの関係、歴史をとおしても如実に描かれています。

 そして、その罪がはっきりと罪と自覚できるために、神様はモーセをとおして、十戒、つまり律法の根本となるものをイスラエルの人々に与えられました。この律法によって、神様の戒めを守らないということで、神様への背きの罪が、自覚しやすくなり、また、互いに誰の目にもわかるようになったのでした。律法は神様から与えられた戒めでしたから、それを守らないことは、明らかな罪と定められました。

 しかし、それでは、律法以前のアダムとモーセの間の時代にも、人は死んでいったのであり、そのことを考えるときに、それらの人々も罪を犯したことがわかります。つまり、すべての人は罪を犯すことがわかります。そして、この間に人間は死んでいったわけですから、律法を守ったから救われる、守らなかったから罪に定められるということでもないことがわかります。

 罪を自覚できるかどうかは、あるにしても、いずれにしても人は神様への背きの罪を犯して死という滅びに至るのです。そう考えますと、やはり、最初に創造された一人の犯した罪によって、その一人の人アダムを通して死がすべての人を支配するようになったのです。

 しかし、神様の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物(贈り物)によって、すべての人は義とされ、命を得ることができるようになりました。それも永遠の命を得ることとなったのです。けっして、人間の側の神様に対して行っていた律法を守るという形のいわゆる正しさではなく、神様の側の恵み、イエス・キリストの恵みの賜物(贈り物)によって、神様の側の働きによって、すべての人は義とされた、正しい者とされた、あなたはそれでよい、そういう存在になったのでした。

 それでは、その神様の恵み、イエス・キリストの恵みの賜物(贈り物)とは何だったのか、ということですが、それについては、5章の前半、特に6節からのところに書かれています。6節「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」。

 私たちの弱さとは、人としての生まれながらの弱さを言っているのでしょうか。誘惑に弱い、何ごとに対してもまったく無力である、肉体的にも次第に衰えていく存在である、挙げればきりがないと思います。そして、そういった持って生まれた弱さを抱えている人間というだけでなく、人間は神様をほんとうに信じようとしない不信心な者なのですが、そのような私たちのためにイエス様は死んでくださったのでした。

 世の中には、正しい人のために死ぬ者はほとんどいませんが、善い人のために命を惜しまないという人はいるかもしれませんとパウロは述べています。自分の義を神様の前に立てようとして生きている人々、例えば、当時の律法を一生懸命に守ろうとしていたファリサイ派や律法学者たちがそのような人々であったとも言えます。こうした人々が信心深くて正しい人でした。このような人々のために、死ぬ人はいないだろうと言います。

 それは、すでにそのような人々は、誰が見ても、神様から愛され救いを得ている人々であって、そのような者たちのために、命を惜しまないという人々はいないだろうということです。もう既に神様のおすみつきを得ているような人々だから、こうした人々のために命を捨てるなど必要ないからです。しかし、善い人というのは、ここでは律法をきちんと守って、正しく生きているわけでもないけれど、善良な人で、誰にでも親切で誠実に生きている人ということでしょうか、このような人のためだったら、命を惜しまないという人はいるかもしれないと言います。

 しかし、キリストは、どちらの人々とも違う、正しい人でもない善い人でもない、まるで不信心な者たち、神様を畏れない罪深い者たちということです。このような人間としての弱さだけではない、神様をも信じようとしない不信心な者のために、イエス様は、死んでくださったのでした。

 また、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」とも書かれています。ですから、キリストは、罪のない者たちのために死んでのではない、聖人君主たちのために死んだのではないということです。

 私たちが神様を畏れることもせず、神様に背いて生きていた、罪人であったときに、死んでくださいました。それによって、神様は、私たちをどんなに愛しているかを示されました。独り子であるイエス様よりも、私たちの命を愛おしんでくださったのでした。

 それから、「わたしたちはキリストの血によって義とされたのです」。キリストが十字架におかかりになって死んだからこそ、血を流してくださったからこそ、私たちは、神様によって、義とされました。正しい者、それでよいとされたのでした。

 「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」。私たちは、神様に敵対して生きてきました。そのようななかにあって、神様は、独り子であられたイエス様を十字架におつけになられて、神様の方から和解の手を差し伸べてくださったのでした。

 本来でしたら、神様に敵対して生きているような人間は、死で滅び去るのが、順当な報いであるでしょう。しかし、神様は、そのようにはなさいませんでした。神様の方から、一方的に和解の御手を差し伸べてくださったのです。しかし、そこには、イエス・キリストの十字架の死という犠牲が必要でありました。

 5章の1節から2節には、こうあります。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。

 私たちが義とされたのは、神の恵みとイエス・キリストの恵みの賜物(贈り物)によったのですが、しかし、それだけでは神様と私たちの接点はなく、接点が生じるのには、こちら側の責任があるということを言っております。つまり、5章の6節から10節に書かれている内容を信じて受け入れるという信仰によって、義とされるということなのです。

 知っただけではだめだということです。それを知って、それを心から信じ感謝して受け入れるということが起こらなければ、私たちが神様から義とされることはありません。律法を守って、自分の正しさを神様に認めてもらおうという姿勢よりは、罪ある自分を認め、この自分のためにイエス様が十字架におつきになられた、そのことを信じる、そうした信仰によって、神様に義とされるのです。

 私たちは、最初の人アダムのときから、罪がこの体のなかに遺伝子の一つとして、組み込まれているようなものなのです。最初に創造されたあのアダムの血を受け継いでいることになりますから。どうしても罪を犯してしまう、どうしても、神様に背いて生きることをしてしまっている、ダメだとわかっているけれども、それを行ってしまう。

 こうすれば、神様が喜ばれるということはわかっているけれども、それを行うことができない。まさにパウロが自分の罪について述べていることです。パウロは、7章の7節からのところで、自分に内在する罪について語っています。「わたしは自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と言っています。

 また、こうも言っています。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを数ってくれるでしょうか」。アダムが、罪を犯して食べてはならいといわれていた木の実を食べたとき、神様の目を逃れるために隠れたように、そのように、罪を犯した私たちは、これまでの人生をこの罪を犯したアダムのようにして生きていかなければなりませんでした。

 しかし、今や、そのように神様の目を逃れるようにこそこそと生きていく必要はなくなりました。実に、安心して、生きていくことができるようになりました。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」そのことを信じ、受け入れるだけでよいのです。

 とはいえ、この世に生きる私たちには、多くの苦難があります。それらは、忍耐することを教え、それから練達へと導き、ついには、希望を生むことになるとあります。苦難があっても、それを忍耐することができる、忍耐することを教えてくれる、そして、その次には、その苦難からはじまったその出来事は、忍耐することを教えたあと、練達へと私たちを導いていきます。

 練達とは、「熟練しその道の奥義に達していること」と言う意味ですが、そのように私たちを成長させてくれるというのです。そして、ついには、希望へと私たちを至らせてくれるのです。そして、その希望は私たちを欺くことがないとまで言います。この希望というのは、いったい何でしょうか。

 それは、2節の「神の栄光にあずかる希望」だと言えるでしょう。神様の光に照り輝かされる者になるという希望です。そして、5節「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とあります。

 神様の愛、独り子を私たちの罪の赦しのためにくださったという、それほどまでの神様の愛が、わたしたちの心に注がれています。その愛が、私たちの苦難をも、落胆や絶望ではなく、ついには、希望へと向かわしめていくのです。神様の愛に包まれているのだから、すべてのことは、良い方向にことを推し進めていくはずであるという希望です。

 そして、もう少しこの希望について考えてみますときに、それは、21節に集約されるのではないでしょうか。「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」。

 罪は、死という滅びに至らせるという形で、私たち人間を支配していた、それに反し、恵みは、神様の義、正しさで私たちを支配しながら、それは、つまり独り子イエス・キリストを十字架におつけになるという形で、そして、そのイエス様の十字架を信じる、イエス様が私たちのために十字架におつきなられたという事を信じる、その信仰によって永遠の命に導いていくということなのです。

 わたしたちにもし信仰がなければ、どうなるでしょうか。自分たちに降りかかってくる多くの苦難や艱難、不幸と思われる事柄をどのように受け止め、そのようななかで、どのように希望を持っていけばよいというのでしょうか。私たちは、先ほど説明したような信仰がありますから、どのような苦難、困難、不幸と思われる事柄のなかに遭っても希望を持ち続けることができます。

 神様に赦されて生きることの安心のなかに生きることができます。神の栄光にあずかる希望をもつことができます。神様に愛されているということの平安と確信をいただいて生きることができます。永遠の命に至る希望を持つことができます。


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