礼拝説教

12月24(キャンドルサービス)

 ルカによる福音書2章8〜20節

 

天使は言った、恐れるな

 

平良 師

 この一年は、皆様にとっても、いろいろなことがあった一年だったのではないでしょうか。ご自身の仕事、家族との関係、健康の問題などもおありだったでしょう。日本の社会でも、世界でも、いろいろな出来事がありました。テロも相変わらずありました。悲惨極まりない事件でした。それによって世界が、戦々恐々となりました。アメリカの大統領選挙も驚いたことの一つでした。

 差別的で自己中心的な言動が堂々とまかりとおり、おそらくそのような国造りも、この新しい大統領によって、ほんとうになされるのではないかと世界中の人々が恐れを感じております。そういった意味でも、これから日本とアメリカの関係はどうなるのだろうかと思います。日本でも選挙がありました。懸念することは、与党の大勝利によって戦争のできる国へと、着々とことが進められていくのではないかということです。他に、基地の問題、領土の問題、お隣の国々との問題、経済の問題、環境の問題、時代は少子高齢化の大波のうねりのなかで福祉の問題、介護の問題があり、共働きや子育ての問題など、不安に思うことは山積みです。そして、どれ一つとっても、大丈夫というものはありません。

 2000年前、羊飼いたちに語られた「恐れるな」という言葉は、あの時代の人々にだけではなく、今日のこの不安な世界に生きる私たちにも語りかけられております。

 2000年前も、イエス・キリストが来られたのは、問題の質は異なっていたとしても、このように人々が抱えているいろいろな問題が山積するこの世の世界でした。当時は、ローマ帝国が、多くの国々を属領におき、その地域の人々は、税金などの締め付けもあり経済的にも、苦しい生活を強いられておりました。繰り返しますが、イエス様が来られたのは、決して、このような俗世の社会から切り離された聖なる場所ではありません。人間のいろいろな思惑や罪、苦しみ悲しみが渦巻いているどろどろとした世界にイエス・キリストは2000年前に来られたのでした。

 そして、それも、日ごろから清く正しい生活を送っている人々だけのところに来たというのではなく、その逆で、罪のなかにあるいわゆる一般的な人々のところに、否それよりもさらに悲しみや絶望の中にある人々のところに、来られたということです。ですから、まさに、今日ここら(町中)を恋人と共に歩いておられるこれからの社会を造っていく若者の皆さんや日々の労働から解放されてクリスマスの雰囲気の中で、忘年会をしているサラリーマンの方々や商売をされている皆さん、家庭で父親、母親、子どもたちの帰りを待っている家族のただなかに、イエス様は来られたのだということなのです。

 決して、俗世から離れたどこか山の中の聖なる場所に、人々とは関係のないような形でイエス様はお生まれになったのでは決してありません。むしろ、この問題だらけのどろどろとした私たち人間の住む社会に、生身の体を持つ一人の人として来られたのです。もっと言えば、家族を失ってしまい路上で生活している人々や生活の場が戦場と化し、負傷してしまった老人や子供たち、そして、今孤独に病院によこたわっている人々、幾つもののっぴきならない問題を抱えてしまった人々のところに、イエス様は来られたのです。

 さて、時は、ローマ皇帝のアウグストゥスが、全領土の住人に、登録をせよとの勅令を初めて出し、それによって、人々が、住民登録をするために、それぞれ自分の町へ帰るということをしていた状況にありました。ローマが住民登録を実施した大きな目的は、それにより税金をさらにきっちりと徴収しようと考えたのでした。強大な権力の力によって、右往左往させられるのは、いずこの時代も同じで、弱い市民であります。

 このローマの皇帝をある者たちは、恐ろしいことに、メシア・救い主と考えたようです。そのとき、ヨセフは身重のマリアを連れて、故郷のベツレヘムへ帰り、そこで、出産をせざるをえなくなっておりました。彼らが、帰ったときには既に大勢の人々が故郷に帰ってきており、彼らの泊まる宿屋はもうどこにもありませんでした。それで、ヨセフとマリアは、いたしかたなく、宿屋にある家畜小屋だったのでしょうか、そこで出産し、適当な場所がなかったこともあり飼い葉桶に、生まれたばかりの幼子イエス様を寝かしていたのでした。

 ルカによる福音書では、イエス様の誕生の知らせが、ヨセフとマリアを除いて、一般の人々に告げられたのは一番に羊飼いたちであったと記しています。彼らは、このときベツレヘム近郊の野原で、野宿をしながら夜通し羊の番をしていました。羊飼いというのは、当時、どちらかと言うと罪人という枠のなかにある人々でした。

 当時は、律法というあらゆる生活習慣や慣習などを規定している決まりがありまして、それを守らない、守れない人々は罪人というレッテルを貼られておりました。彼らは、羊を追って野原を巡り歩いていた者たちでしたから、仕事がら律法を守ることもできなかったのでしょう。そして、ときには、羊を追いながら人さまの土地に入っていくこともあったようで、彼らを盗人呼ばわりする人々もいたくらいでした。

 その彼らのところにヨセフとマリアを除いて一番に、救い主誕生の知らせが届いたのですから、これは、もし、当時の律法をしっかりとまもっていたユダヤ人たちが聞いたら、そのようなことがあるはずがないと思ったに違いないのです。そのときのようすは、彼らが羊の番をしている夜、天使が現れて、主の栄光が周りを照らしたとあります。栄光とは、要するに神様の放つ強い大きな光なのでしょうか、それで、羊飼いたちは、非常に恐れました。それは、当時、夜の光というものは、マキや油を燃やすなどして発する炎の光とか、月のあかりとか、そういったくらいなものだったでしょうから、このときの主の栄光は、非常な驚きであったことは当然のことでありました。

 それで、天使は言うのです。「恐れるな」。これはまさに、主の栄光を見て、驚き恐れおののいている彼らに発せられた言葉だと理解できます。しかし、この「恐れるな」は、それだけでしょうか。と言いますのも、天使は続けてこう言いました。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」ということでした。

 民全体、つまり、この救いは、何もユダヤ人に限られるものではなく、全人類に及ばされると言いました。おそらく、当時の羊飼いたちは、社会的にどう見られていたかは彼らなりに認識しておりましたでしょう。それは、律法を守っているいわゆる正しい人々からは、救いからもれた人々人であるといったことでした。ですから「民全体に与えられる大きな喜び」とか、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という知らせは、羊飼いたちには、どれほどの歓喜で受け止められたことでしょう。恐れることはない、それどころか、あなたがたにとっては、むしろ、たいへん喜ばしいことではないか、ということでした。

 「この方こそ、メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。

 そのあとに、天使たちが讃美して、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と言ったのでした。このメシアがお生まれになったのは、民全体に対する喜びであるということでしたから、そこに自分たちが含まれているということでしたが、そのあと、地には平和、御心に適う人にあれ、と言われるときの、御心に適う人とはいったいどのような人たちのことを言っていたのでしょうか。彼らにこそ、いち早く、救い主誕生の知らせが届いたということは、ここでもまた、こうした羊飼いたちが、当然のごとくして御心に適う人々の中に含まれていたということでした。

 天使たちが離れ去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合って、実際に急いででかけていったのでした。私たちに知らされているクリスマスの物語は、このルカによる福音書とマタイによる福音書が、ミックスになったものです。

 先週は、わたしは、マタイによる福音書のなかの東方の国の占星術の学者たちが、ユダヤ人の王(メシアのことですが)として生まれた方の星を発見して、エルサレムへやってきて、それから、ベツレヘムにでかけていって幼子を拝んだという箇所から説教をしました。エルサレムに一旦やってきた彼らに、実は、そのお方はベツレヘムにお生まれになることになっていると知らせたのは、ユダヤ教の祭司長や律法学者たちでした。

 しかし、当の本人たちは、旧約聖書をとおしてそのことを知っておりましたが、そのお方が最近お生まれになったという異邦人、異教徒である東方の占星術の学者たちの話を聞いても、信じることはありませんでした。まずもって、救い主誕生の知らせが、どうして、異邦人、異教徒たちにもたらされるはずがあろうかと思ったことは否めません。救いはユダヤ人にこそもたらされるのであって、異邦人、異教徒たちではないはずだったからです。

 ですから、ベツレヘムへ出かけて行くこともしませんでした。ヨセフとマリアを除いて、一番に、救い主誕生の知らせが届いたのが、マタイではその異邦人の占星術の学者たちであり、ルカでは、救いからもれた罪人としての枠のなかにあると考えられていた羊飼いたちなのでした。そして、彼らに共通しているもう一つのことは、救い主誕生の知らせをいただいたときに、すぐに、そのお方に会うためにでかけていったということです。

 先ほど、私は、ユダヤの祭司長や律法学者たちが、どこにメシアがお生まれになるかは旧約聖書をとおして知っていたけれど、それが最近起こったと学者たちから聞いても、それをでかけていって確かめようともしなかったのは、彼らが、異邦人、異教徒である学者たちの言うことを信じなかったからだと言いましたが、実は、それだけではありませんでした。彼らは、この知らせを聞いて、不安に思ったとも書かれています。

 それは、メシアが来られたならば、今のユダヤの指導者としての彼らのありようがそのままであることが許されなくなるような恐れを一瞬おぼえたからでしょう。彼らは、いずれ、イエス様を十字架にかけることに奔走しはじめるのでした。それは、当時のユダヤの王であったヘロデ王もそうでした。ヘロデ王こそ、真っ先に、不安をおぼえた一人でした。新しいユダヤ人の王がお生まれになったと聞かされたからでした。すべての人々にもたらされた福音ですが、素直に喜べない人々もいることがわかります。

 さて、話を羊飼いに戻しましょう。野原で神様の栄光を目の当たりにした野宿していた羊飼いたちには、「恐れるな」との言葉が天使たちからありました。それは、これからの人生を考えると、それはまさに、恐れる必要のないこと、否、逆に喜び、安心材料でありました。「今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである、あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。

 救いからもれて、メシアなど自分たちには関係ないと思っていたけれど、この自分たちのために、この救い主がお生まれになった、ということを羊飼いたちは聞かされました。そして、そのお方は、飼い葉桶の中に寝かされている、ユダヤ人の王ということで、そこが宮殿であればいけなかったのですが、そうではなく、飼い葉桶の中に寝かされているということは、自分たちもそこへ行くことができる、それほどに自分たちにとってこのお方は身近である、そういった気持ちであったでしょう。

 彼らは、ベツレヘムへ急いででかけて行きました。そして、すぐに居場所を探し当てたようで、その家に入り、幼子が確かに飼い葉桶の中に寝かされている姿を見ました。彼らは、人々にも、この幼子のことを話しました。聞いた者たちは、羊飼いたちの話を不思議に思いました。不思議に思った彼らが、急いでイエス様のところに行ったかどうかは書かれていません。これもまた学者たちから救い主誕生の知らせを聞いたものの、そしてそのことを不安に思ったけれども、すぐに見に行ったようすがなかった人々と同じです。羊飼いたちの方は、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、讃美しながら帰って行ったのでした。

 行かなければ、それが、そうであったかどうかはわからなかったし、それほどの喜びを感じることもなかったでしょう。彼らは行って、ほんとうに、この幼子が自分たちの救いのために来られたメシアであることの確証をえたのです。そして、これからの人生が、ほんとうにこのお方が共におられると思うときに、どのようなことが起ころうとも恐れる必要のないことを知らされたはずなのです。

 私たちもまた、今宵、イエス様ご降誕をお祝いするためにここ集まり、2000年前に来られた主イエス様が、これからも私たちの人生に伴ってくださることを新たに実感しています。このお方は、私たちの救いのために来られ、いろいろなことがあっても、恐れるな、恐れることはないとすべての恐れや不安から解放してくださることを約束してくださいました。今宵もまた、私たちは、この主メシア、キリスト、救い主イエス様を崇め、讃美致しましょう。