礼拝説教

1月22

 マタイによる福音書9章18〜26節

 

あなたの信仰があなたを救う

 

平良 師

 

 ここには、二つの奇跡物語が描かれており、イエス様に救いを求めてやってきた二人の人物が描かれています。一人は、「ある指導者」とあります。もう一人は、12年間も病気で苦しんでいる女でした。指導者とありますから、女性とこどもは人の数にも入らない時代であったことなどを考えますと、この親でもある指導者は男性であり、後にでてくる少女の父親です。指導者とは、ユダヤ社会の指導者であり、マルコによる福音書には会堂長ヤイロとあり、職業と名前まででてきます。

 私たちは、今日は、マタイによる福音書の箇所から、この物語を見ますので、マルコとルカに記載されている内容はちょっと横においておきます。ですから、ユダヤ社会の指導者が、イエス様のところにやってきて、ひれ伏したということだけで考えてみます。ところで、当時のユダヤ社会の指導者たちがイエス様をどのように見ていたかについては、一枚岩ではなかったと思いますが、それでも、律法学者やファイサイ派、祭司長など、イエス様に敵意を抱いていた人々が結構多かったことは他の箇所からもうかがい知れます。

 そして、それらの人々のいわゆるユダヤ社会の指導者層に属していた人々の陰謀によって、イエス様が十字架に追いやられたということを私たちは知っております。ですから、つい、指導者ときくと、この人物もその手合いではないかと思ってしまうのです。しかし、この人物はそうではなかったということです。彼には、娘がおりました。そして、その娘がたったいま死んだというのです。親として、こどもの死ほど、つらいものはありません。病気になってから、この指導者は、父親として娘の病状がよくなってほしいと願って、どんなにか手を尽くしたことでしょうか。

 しかし、その甲斐もなく、死んでしまったのでした。彼は、絶望で打ちのめされたことでしょう。ここに至っては、もう、誰にもどうすることもできないことでした。しかし、この指導者は、イエス様のことがこのときふと思い出されたのです。当時おそらく話題の人であり、多くの人々の病を治しているイエス様のことが思い出されたのです。そして、あのイエス様だったら何とかしてくださるかもしれない、否、そうであって欲しい、そのような思いになりました。

 そして、イエス様に救いを求めて、やってきたのでした。彼は、「おいでになって、手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょう」と言いました。これは、イエス様に対する信仰です。イエス様であれば、そのことを成し遂げてくださると信じたのでした。イエス様は、その男の話を聞いて、立ち上がり、この男について行かれました。

 ところが、途中で、12年間も患って出血が続いている女性がおりました。おそらく、生理的な婦人病の一種か何かだったのでしょうか。そして、あとでわかりますように、イエス様から「娘よ」と言われておりますので、かなり若い頃からこの病気に苦しんでいたと思われます。また、この女性は、出血しているという病の性格からして、当時のユダヤ社会では汚れた者としての意識を持たざるをえない中で、日々の生活を強いられていたと思われます。

 ですから、この女性は、単に肉体的に不調を感じていたというだけでなく、精神的にもかなりの苦痛を味わっていたことは想像にかたくありません。その女が近寄って来て、後ろからイエス様の服の房に触れたのでした。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからでした。これもまた、この女のイエス様への信仰でした。房というのは、当時、男性の服の四隅につけていたものでした。それは、その人物が、神様に従う清い者といったことを表しておりました。

 ですから、この女性が、その服の房に触れるということは、汚れているといった自分の身を思えば、とてもできることではなかったのですが、彼女はそのタブーを犯してまでも、イエス様に触れねばならなかったのです。彼女は、これまでの生活を送り続けることに、もう、限界でした。ぎりぎりのところまで来ておりました。そして、イエス様にしか、もう、頼れる者はいなかったのです。

 でも、堂々と触れることなどできませんから、そっと、気付かれないように、後ろから触れました。イエス様は振り向いて、この女を見ながら、見つめて「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。そして、この直後に、この女性の病は治りました。  

 また、それから指導者の家に向かいました。家に着きますと、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆がおりました。彼らは、葬儀の真っ最中でした。雇われた泣き女や楽の音を奏でる者たちなど、葬儀は、佳境に入っておりました。そこで、イエス様は、「少女は死んだのではない。眠っているだけだ」と言われました。もし、葬儀をしている最中に、誰だか見知らぬ人がやってきて、この者は死んだのではない、眠っているだけだ、と言ったとしたら、皆様はどう思われるでしょうか。

 復活を信じている私たちですら、この人はおかしいのではないか、と思うでしょう。私たちが日ごろ送っている日常生活から判断していることは、そうでないといくら言われても、はいそうですかと言えるものではありません。常識とか、それが普通だといったことは、そう簡単に覆せるものでありません。死者をさして、眠っているだけだと言えるのは、イエス様以外、神様以外にはおられません。私たち生身の人間には、死者は死者です。信仰をもっていると思っている私たちですら、そうです。それが、普通の反応です。イエス様は、イエス様を嘲笑う群衆を外に出したあとで、少女の手を取り起こしますと、少女は起き上がったのでした。

 イエス様は、このとき二つの奇跡を起こされました。それは、二人の人間の求めに応じるものでした。7章の7節で「求めなさい。そうすれば与えられる」と教えられたのはまさにイエス様でした。そして、彼らには、このイエス様に対する信仰がありました。イエス様は、彼らに答えるとき、二つのしてはならないことをしております。それは、おそらく、イエス様だったからこそ、当時の社会にあって、成し得たことだったでありましょう。それは、一つは、死人に触れたということです。もう一つは、出血して汚れていた女性に触れられるということをよしとされたことです。

 これらのことは、律法では、してはならないことでした。されてもならないことでした。律法というものは、当時、罪ある者と罪のないもの、俗なる者と聖なる者、正しい者と誤りのなかにある者、汚れし者と清い者、良い人と悪い人、そのように人を分断するものとして機能しておりました。この律法に生きる限り、人と人とが真実に出会うことはできませんでしたし、弱い者、貧しい者が助けられるということも、起こることは稀有だったのです。

 イエス様のなさった奇跡は、分断させられてしまった者をもう一度、生活の場や社会に復帰させることでもありました。それは、彼らの求めに応じるものでした。指導者の懇願の前に、立ち上がったイエス様、女性が服に触ったのに気付かれて、振り向いたイエス様、イエス様は、どのような求めにも応えてくださいます。

 昨日、ある国の大統領の就任式をテレビで見ました。まさに、出発時からその船出は波乱の幕開けと言ってもいいようなものでした。この期に及んでも、彼の就任を認めないという人々が大勢おりました。この大統領の各方面にわたる差別的な発言で傷ついている人々もおり、これからの政策に彼の持っている思想が具体的な形となって表されていくことに不安と恐れを抱かざるをえないのだと思います。

 そのときになされた就任演説も聞きました。自国の利益を優先させるということで、これまでの、自由貿易的な流れから、とても保護貿易的な流れ、保護主義的な流へと転換していく様相を呈しています。これまで盛んに言われていたグロバリゼーションとかいったこととは対極的な歩みです。グロバリゼーションもそれはそれで問題ではありましたが、世界中が、今はこの一人の人間の一挙手一投足に右往左往させられています。彼にとっての良いという基準は、それが自国のためになるかどうかということであるようですが、それはきっと、そのうち、その国の誰にとってもではなく、どの層のどのような人間にとってというように狭められていくことになるでしょう。

 そのとき、それが貧しい階層であることを願いますが、それが逆であれば悲劇です。この人物が押し進めることは、差別、分断を助長することになるのではないか、そして、世界中の国々が、右へならいで自分の国の利益のことしか考えなくなれば、いずれ、あちらでもこちらでも自国の利益を求めての戦争が起こるようになる、それは想像のできないことではありません。この大国の指導者もまた、神の名を演説の最後の方で口にしておりました。

 彼は長老派のキリスト者だということです。ただし、挨拶文のようにして自分の都合のよいように、神の名を口にしてはならないのです。ほんとうに神様を呼び求めたいのなら、今日の聖書に出てきた指導者のように、彼自身が、彼自身の無力さ、弱さとつまずきをイエス様に告白すべきなのです。選挙中、それ以後も自分の愛する国民をここまで分断に追いやった手法について、神様に対して悔い改めの言葉を述べるべきです。そして、神の名を口にしたいのであれば、悔い改めの言葉と同時に、これこれのことは、私ではなく、神様、イエス様でしかできないことだと告白すべきでありましょう。

 指導者という言葉が聖書にでてまいりましたので、最近世界をにぎわせている指導者に触れながら、その違いをとおして、聖書に登場している指導者の姿に学ぼうと思いました。指導者こそは、まず、自分の無力さ、限界、弱さ、つまずきを知っている者である必要があるのではないでしょうか。傲慢であったり、多様性を認めず、自分こそが善悪を判断できると思ってはならないのです。しかしながら、神様を呼び求めるあるべき姿は、指導者であろうと一般の私たちであろうと同じです。

 今日の箇所では、病で長く苦しんでいた女性と指導者の娘が、イエス様が起こしてくださった奇跡をとおして、健康を回復し、社会に復帰していく、命を取戻し、家族や社会のなかで生きていくことが再びできるようになったわけでありますが、しかし、考えてみますと、そうやって病気が治った、死んでいた者が復活させられたとしても、いずれは、その肉体も再び滅びに向かって衰えていき、ついには死を迎えるわけです。

 ですから、奇跡物語というのは、奇跡によって、絶体絶命と思われていたことが回避させられて、よかったよかったということよりも、それももちろん大切なことではありますが、しかし、ちょっと違う何かを伝えようとしているのではないか、と思わされます。奇跡をとおして私たちに示されていることは、このイエス・キリストが共におられる限り、終わりはない、限界はないということなのです。

 希望が失せることはありません。そこでの希望というのが何かというと、イエス・キリストによって与えられる命のことです。いわゆる永遠の命のことです。そこまでのことを奇跡物語は、意味しているのではないかということです。イエス様が言われた言葉で、ヨハネによる福音書の6章の48節からのところに、「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」とあります。

 ここで言われていることは、たとえ、神様が与えられるパンであっても、それで、命を永らえさせることはできても、いつかは滅びてしまいます、死んでしまうものであるということです。ところが、イエス様からいただく命のパン、イエス様そのものですが、それをいただくことが、私たちを永遠に生きるものに変えてくれるというのです。その命は、死をもって、すべてが終わってしまうようなものでありません。イエス様と共なる命です。肉体の滅びがやってきてもなお、希望へ続いている命です。

 ところで、ここでもまず、求める姿勢が描かれています。7章7節の「求めなさい。そうすれば、与えられる」そのことの具体的な姿が描かれています。奇跡は、求めない先になされるかというと、そうではありません。私たちの求めに応じる形で、与えられるものです。父親である指導者が娘のために求める姿、12年間も病の中にある女性の求める姿、それらにイエス様は、呼応されています。

 そして、当時のタブーや常識などを押して、イエス様は腰を上げておられるのです。振り返って御覧になってくださるのです。「あなたの信仰があなたを救った」。イエス様が私たちに求められているのは、そのことです。イエス様に腰を上げていただけるように、イエス様が振り返って見つめてくださるように、私たちは、イエス様を神様を今日も呼び求めたいと思います。