礼拝説教

2月5

 マタイによる福音書11章2〜19節

 

知恵の正しさは働きによって証明される

 

平良 師

 

 荒れ野で、悔い改めのバプテスマを授けていたヨハネは、イエス様にバプテスマを授けるという出来事があったのち、しばらくして領主ヘロデに捕えられました。それは、ヘロデが、兄弟のフィリポの妻へロディアと結婚をしようとして、そのことを律法に違反しているとヨハネから指摘されたことで怒り、彼を捕えて投獄したのでした。

 ヨハネという人物は、かつての預言者としての風格だけでなく、働きそのものも権力者を恐れることなく、言うべきことをしっかりと言える、そのような毅然とした態度のとれる人間だったようです。ヨハネは、牢獄の中で、そののちイエス様がなさっていることを自分の弟子たちからいろいろと聞いたのでしょう。そして、ある種の疑念がわいてきたのです。

 というのも、それまでは、イエス様こそ来たるべきお方、つまり、メシア、救い主ではないかとヨハネは考えておりました。しかし、そのメシアとおぼしきお方の姿は、ヨハネが期待していたメシア像とは少し違ったようなのです。

 つまり、つまずいたのです。ヨハネがイメージしていたメシアは、3章の10節から12節に描かれています。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、私の後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。

 つまり、そのお方は、大きな力を持っておられる裁き主なる厳しいお方でした。ですからこそ、人々に対して、罪によって、このお方に裁かれぬよう悔い改めよ、と迫っていたとも考えられます。しかし、イエス様はそのような恐ろしい裁き主ではありませんでした。それで、ヨハネは牢獄の中から自分の弟子をイエス様のところに送って尋ねさせました。

 「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。イエス様はヨハネの弟子に言われました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。

 これが、イエス様のなさっていることであって、厳しい裁き主としてのお姿はなく、また、多くの者たちが期待していたメシア(救い主)像であった、武力などの大きな力を用いて社会を変えたり、動かそうとされる方でもありませんでした。まさに、イエス様のなさっていることについて言えば、イザヤ書などにでてくるイスラエルの回復を物語るときのようすさながらのことをなさっていたのであって、裁きをされる厳しいお方ではありませんでした。

 それは、例えば、イザヤ書29章18節「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る」とあるように、イエス様は、具体的に個々の人々に出会われて、癒しの業、力なき弱り果てている人々に出会われて、力を与え、励ましを与えられる、そのようなお方でした。おそらく、ヨハネの弟子からこの話を聞いたヨハネ自身は、そののち、ますます、そのつまずきは確信となったのではないでしょうか。

 ただし、そのあとのイエス様の語られていることは難解に思われます。「彼(ヨハネ)が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」。この聖書の箇所は、いくつかの説があるようです。天の国が力ずくで襲われているのは、「彼(ヨハネ)が活動し始めたときから」とありますから、ヨハネと深く関係していることはわかります。

 イエス様の神の国を述べ伝えるといういわゆる神の国の運動が始まってから、それは先駆け者としてのヨハネから既に始まっていたという見方もあると思いますが、そのため一挙に敵対する者たちが現れた、例えば、ファリサイ派とか、律法学者、祭司長などです。彼らは、人間の力でもって、つまり律法をしっかりと守るということで神の国に入れる、天国に入れると理解しておりました。

 そして、それを他のユダヤ人たちにも解き、強い態度で行為を迫っておりました。もう一つは、ヨハネの信仰は、悔い改めの洗礼を授けるということですから、これもまた、人間がとにかく努力して神の国を得ようとするものでもありましたから、そういった意味では、ヨハネもまた旧約聖書以来の人々の枠の中に入るという理解の仕方からすれば、ヨハネからこの神の国を力ずくで得ようという動きがいっそう高まってきたという理解ができるかと思います。

 それに対して、イエス様のもたらそうとしている世界は、「悔い改めよ」とは言うものの、「天の国は近づいた」というもので、それは、神様の側から人間に近づいてくるものでした。人間の側から神の国、天の国を得ようとする姿勢と、神様の側から人間の側に近づこうとされる姿勢とがイエス様の登場によって、明確となりました。ヨハネは、ちょうどその中間にいたというか、橋渡しをしたということだったのでしょう。

 そして、残念なことは、イエス様が来られて、既に、いろいろなところにメシア到来のしるしは見えているのに、人々がそれに気付こうとしないことでした。それは、人々の無視ともとれる所業でした。その働きによって、神の国の到来という出来事は、ヨハネとイエス様のそれぞれによって証明されているのに、それを見ようとしない時代だとイエス様は嘆かれました。

 16節、「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』」。逆に、ヨハネには、食べも飲みもしないでいると、荒野で断食や苦行をしている姿でしょうが、それを見て「あれは悪霊に憑りつかれている」と、悪口を言いました。

 また、イエス様にも、徴税人やいわゆる罪人と目される人々と食事をしていると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」とこれまた悪口を言いました。しかし、イエス様は、知恵の正しさは、その働きによって証明されると述べました。その働きとは、先の、色々な人々の病や障害を癒されたということや徴税人や罪人と目される人々と交わりをもち、食事も一緒にされた、彼らの友となられたということでした。

 この「知恵の正しさは、その働きによって証明される」という言葉は、真実ではないでしょうか。「その働き」を吟味することです。イエス様のなさったことは、イザヤ書のなかでは、少なくとも3回ほど、同じように、イスラエルの回復のしるしとして表現されています。それは、決して、物質的、経済的に潤うという話ではありませんでした。

 イザヤ書に書かれていることが、イエス様によってなされたのです。それは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」ということでした。そして、それは、当時にあっては、到底ありえないことでした。しかし、そういういろいろな奇跡に与った者たちにとって、また、イエス様との出会いをいただいたそれまで疎外された人生を送っていた者たちにとって、それらのことは、どんなにか説得力をもつできごとだったでしょうか。

 「知恵の正しさは、その働きによって証明される」出来事だったはずです。それは、今に生きる私たちも同じです。病の癒しや身体的な機能の回復は誰もが願うことであって、それらを成し遂げてくださるお方により頼みます。社会から疎外されている孤独な者にとって、一緒に食事をし、友となってくれる人が与えられることはどんなにかうれしいことでしょう。それは、国が経済的に潤うということとは違います。もちろん、国が潤えば、それはいずれ人々の生活に反映してくるでしょうから、いろいろなものが豊かになっていくということはあります。医療・福祉も充実してくることでしょう。

 しかし、この国が富むという構造には、すべての人々がそうなるという仕組みが必要です。ある者が富むようになることで、ある者たちはさらに貧しくなるというのではダメでしょう。権力を手にする者たちは、すべての人々がという高い理想を成し遂げるために働くべきでしょう。そうでなく、自分たちだけが、あるいは一部の人だけが富むということを考えるとき、他を搾取したり、犠牲にすることになります。

 自分の国さえよければそれでよいと考えるとき、それは非常に怖いことになります。自分の国の利益が一番というので、そのことを突き詰めていきますと、ついには、それは戦争へと発展しかねません。今、世界的にそのような風潮となっております。特に、最近のある国の大統領の登場以来、それは激しくなっております。

 今日は、信教の自由をおぼえての礼拝を守っております。谷口社会委員長が、言われたように、トランプさんは、大統領になる前からでしたが、あちらでもこちらでも分断をつくる方向で、動いてしまう人物のようです。敵を定め、それを攻撃することで、結束を図ったり、支持を得ようとするタイプのようです。一番、最悪な為政者の姿をしています。

 信教の自由ということで言えば、イスラムの人々を十把一絡げにして、テロリスト扱いをしています。テロリストに大義名分を与え、新たなるテロリストを作っていくようになるのではないかと、多くの人々が懸念していることでしょう。そして、その人物と深い関係を結ぼうとしている我が国の政権も、とても危ういと言わねばなりません。

 この大統領のイスラム圏の7つの国家からの移民や入国を一時的にできないようにするという大統領令を巡っては、これは、信教の自由を宣言している憲法に違反するのではないかという訴訟が色々な州や団体から出ているというのですが、ほんとうに、そうだろうと思います。

 アメリカは、多民族国家ですから、まさにそのようなことをすれば、自分たちの理念を冒涜するようなもので、それは許されることではないはずです。それに、そのもとになっているのは、イスラム教ですから、ほんとうに信教の自由を侵していると言われても仕方がありません。

 イエス様が、なされた働きは何だったか、それは、当時の律法の枠内にある人々を保護し、さらに、ユダヤ人たちの利益を優先するために、いろいろと手立てを尽くしたというよりも、律法の枠外にある人々と交流し、彼らの友となったということでした。

 さらに、ユダヤ社会のなかでは、障害を負ったり、重い皮膚病などで疎外され、弱く小さくされていた人々の病や障害を癒されるなどして、力になられたということです。これが、イエス様のなされた働きでした。「知恵の正しさはその働きによって証明される」。私たちは、今、イエス様とは対極にいる為政者の愚かさに遭遇しています。自分たちの国の利益を求め、それは、おそらく富をもっている者たちの代表としての姿ですが、その利益を最終的にはさらに強固なものにするために、信教の自由すらも奪おうという人間の愚かさに遭遇しているのです。

 「知恵の正しさは、その働きによって証明される」。それは誤りもまた、その働きによって、証明されるはずで、同じです。数々の差別的発言、差別的政策は、既に、片鱗をうかがわせるには十分過ぎるものがあります。私たちは、イエス様が教えてくださっている「働き」をもって、知恵の正しさを証明してまいりましょう。できるだけ互いの多様性を認めようとしている私たちの教会は、イエス様が教えてくださった「働き」の一つを具体的に大切にしていると信じたいと思います。