礼拝説教

1月8

 マタイによる福音書5章1〜12節

 

今年もイエス様に倣う者に

 

平良 師

 山上で、イエス様は腰を下ろされ、そのイエス様の近くに寄って来た弟子たちに語られました。おそらく、そこには、それまでつき従ってきていた群衆たちも、一緒についてきていたものと思われます。5章の1、2節には、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされる、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」とあります。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」とはどういうことでしょうか。あまりにも多くの人々の癒しのために疲れ果て、山に登られ、静かなところで休もうとされたのでしょうか。

 しかし、そのあとの行動を見ますときに、どうもそうではなさそうな感じです。イエス様は、群衆のことを深く憐れまれて、弟子たちに、その群衆から伝わってきたことを教え諭そうとされたのではなかったのでしょうか。そして、ここで語られた説教は、今を生きる私たちキリスト者にも語られていると理解できます。これは、イエス・キリストに従おうとする者たちへのイエス様の篤い願いです。燃えるような愛情です。できれば、キリスト者だけでなく、すべての人間がそうであって欲しいと願っておられるのではないでしょうか。

 特に、本日の5章の3節から10節ですが、このような人は「幸いである」といった言い方で内容が表現されています。ここには、8つの内容が書かれています。「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、「柔和な人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「義のために迫害される人々」です。

 そして、それは岩波訳では例えば5章の3節には「幸いだ、心の貧しい者たち、天の王国は、その彼らのものである」とあり、「幸いだ」との宣言がこの8つの内容の冒頭部には、まずあるのです。最初の「心の貧しい人々」とは、「直訳すれば、『霊において乞食である者たち』、自分に誇り頼むものが一切ない者の意」と岩波訳の脚注にはあります。自分には何の取りえも誇れるようなものもなく、ひたすら、神様により頼むしかない、そういう人々のことでしょうか。これは逆説です。

 また、同じ逆説と言えるものは、「悲しむ人々」、「義のために迫害される人々」などがあります。わかりますことは、この8つの人々のありようをイエス様は祝福してくださっておられるということです。これらの人々への幸いだとの宣言は、集まってきた群衆一人一人、弟子たちへの慰めであり、励ましでもあったでしょう。そして、このような者であることを私たちも願いますが、ちょっと聖人君主的な部分も結構あり、性格的に難しいと思っておられる方もいることでしょう。

 それなら、このような人々のところにこそ、イエス様はやってこられたと考えるとどうでしょうか。そう考えますと、少し分かる気が致します。私たちもいつも強いわけではありません。同時に、弱いばかりでもありません。罪にまみれた生活ばかりではありません。透き通るような生活をしていることもあります。ですから、これは、今がそうであるということなのだと思います。そういう人々のところに、天の国や慰めや満たしや、憐みや神の子とされるものがあるということなのです。否、これらの内容にすべて該当するお方として、イエス様のことを真っ先に私たちは思い浮かべるのです。

 「心の貧しい人々」。イエス様は、ご自身を誇ることをされない方でした。誇ることもなく、卑下されることもありませんでした。そのままのお方でした。しかしながら、父なる神様にひたすらに祈られるへりくだったお方でした。誇りをもっていない人間というものが、いるでしょうか。心の貧しい人々とは、誇りをもてないほどに、虐げられた人生を送っているということでもあります。いろいろな病を抱えたり、課題を負わせられたりしてへとへとになっている方です。神様にのみより頼むしかない、「心の貧しい人々」、「天の国はその人たちのものである」。礼拝はこのような、心から神様を呼び求める心の貧しい者たちの場でもあります。

「悲しむ人々」。イエス様の悲しみは、ご自身に関する悲しみもありましたが、特に、十字架におかかりになる前のイエス様はそうでありましたが、しかし、それよりもむしろ、他の人々の悲しむ姿を見て、あるいは、悲しむべき姿をご覧になって、悲しまれるお方でした。ですから、どんなにか多くの悲しみを負っておられたことでしょうか。ヨハネによる福音書の11章35節で、ラザロの葬り場所を聞かれたとき「イエスは涙を流された」とあります。また、ローマの信徒への手紙の12章の15節ではパウロは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と教えています。「悲しむ人々」、「その人たちは慰められる」。教会はそのような人々が、慰められるところ、ある意味でのシェルターでありたいと思います。

 「柔和な人々」。イエス様ほど、柔和なお方はおられませんでした。イエス様自らも11章の29節で「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われています。また、同じくマタイによる福音書の21章の5節には、イザヤ書の62章の11節の御言葉を引用して「シオンの娘に告げよ。見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」とあります。

 ここでの柔和という言葉は、「権力なき」という意味があると言われます。3節の貧しいと同じような意味だそうです。「柔和な人々」、「その人たちは地を受け継ぐ」。地を受け継ぐとは、地上における神の国を受け継ぐということです。神様の前にあって、教会の一人一人は誰も権力なき者でしかありません。特にバプテストの教会は、万人祭司、民主的な教会運営を大切にしており、「柔和な」、「権力なき」ということ、そのことを大切にしていると言えるでしょう。

 「義に飢え渇く人々」。義というのは、社会的な不正や搾取的抑圧が克服されて秩序が回復し、生活が保証される状態であり、「救い」と同義語だと言われます。ですから、ここでは貧しさと悲しみがとり除かれるような共同体の出現を願っている人々のことだと言えます。そうだとすれば、ここには当時の、いろいろな権利や安心のできる生活を奪い取られている人々の姿が見えてきます。イエス様は、神殿の境内で両替商などの台をひっくり返され、そこで商売をしていた人々を追い出したことがありました。

 また、ローマへの税金についても、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返せと言われました。「義に飢え渇く人々」、「その人たちは満たされる」。私たちの教会には社会委員会があり、ある意味では、この「義に飢え渇く人々」の代弁者としての働きを担っております。「憐れみ深い人々」。

 イエス様は、マタイによる福音書9章36節で「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあり、まさに憐れみ深いお方であったことを記しています。そして、数多くの癒しの業をなさり、友なき者たちの友となられました。イエス様のなさった「善いサマリア人」のたとえ話のなかで、「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」と具体的な内容にまで及んでおられます。「憐れみ深い人々」、「その人たちは、憐れみを受ける」。

 キリスト者である私たち一人一人は、あるいは、教会は、どのような形で、そのことを実行に移していけるでしょうか。私たちの教会には、おにぎりの会の奉仕や被災地を忘れないミニストリーや久山をおぼえるミニストリーなど、弱り果て、小さくされている方々と共に歩もうとしているミニストリーがあります。まずは、教会の群れそれ自体が、そのような憐れみ深い者たちの群れでありたいと思います。

 「心の清い人々」。清いというのは、人間の深いところまで、全体的徹底的に清いという意味です。また、汚れないことを表すと同時に、分かたれないという意味で、二心でないことを表すということです。ボンヘッファーという神学者は、「清い心とは、善悪を知らない幼児の無邪気な心であり、堕落前のアダムの心、そこでは良心でなくてイエスの御心が支配している心、そういう心である」と説明しています。「その人たちは神を見る」。

 この言葉は、当時の人々は神様を見るというのは、死ぬということですから、恐ろしい感じも受けるのですが、それよりはむしろ、これは祝福の言葉であって、純粋に神様を待つ者に神様がかならず近づいてくださることを約束していると理解した方がよさそうです。「心の清い人々」、これは難しい、誰にも罪にまみれた邪悪な心があります。しかし、この心も今やイエス様に支配されていると思えるなら、それはどんなにか楽でしょうか。そう信じて歩んでいきたいと思います。「心の清い人々」、「その人たちは神を見る」。

 「平和を実現する人々」。平和をつくりだしてゆくという積極的な行為が称賛されています。平和を意味するシャロームは、内面の平安という心情ではなくて、あらゆる種類の繁栄(元来は、救われ、満ち足りた、完全な状態)の総括を言っているということのようです。これは、終末の完成の状態であって、究極的には神様のなしとげたもう救いの目標です。人間がそれぞれの力に応じて、この平和を生み出してゆく努力をするとき、それは、神様の歴史支配に参与するのでありまして、神の子の栄誉が約束されます。

 ですから、私たちが、行う身近なところでの平和を実現する努力、そして、地方や国の行うことによって脅かされる平和に対する危機を回避しようとする民間レベルの平和を実現する努力は、ひいては、神の国の実現へ一歩近づくということに貢献することになります。私たちの教会の社会委員会の働きもですが、教会員ひとり一人もまた、それぞれのおかれた場所場所で、それぞれにできる形の平和を実現する努力をされているはずです。「平和を実現する人々」、「その人たちは神の子と呼ばれる」。

 「義のために迫害される人々」。この項目については、11節と12節に具体的なことが書かれています。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」とあります。ユダヤ社会にあって、神様のために働こう、生きようとして、同胞から迫害され攻撃に遭っている弟子たちの姿が想像できます。しかし、弟子たちよりも、まずは、イエス様に対する大きな迫害があったことを聖書は伝えております。

 ヨハネによる福音書の1章10節「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。そして、ついには、イエス様は、十字架につけられてしまいました。現代においても、キリスト者たちが、誠実にイエス様に従おうとするならば、迫害はどのような場所にあっても、起こりうるのではないでしょうか。現に、日本の歴史のなかでは、江戸時代のキリスト者たちに対する迫害はすさまじいものがありました。「義のために迫害される人々」、「天の国はその人たちのものである」。

 イエス様は、この8つの「心の貧しい」、「悲しむ」、「柔和な」、「義に飢え渇く」、「憐み深い」、「心の清い」、「平和を実現する」、「義のために迫害される」人々であれ、と私たちに勧めておられます。そして、まずは、この人々のところにこそ、イエス様は来られたのだと思われます。そして、同時に、イエス様こそが、この8つの人々を自らが生きるお方としての模範者でありました。

 私たちはイエス様のように生きたらよいのです。イエス様に倣う者になればよいのです。はっきりと、模範になるお方は示されています。

 2017年度も、私たちは、それぞれがおかれた場所(家庭、職場、学校など)に精一杯生きることで、それぞれが地域や教会で担っている奉仕や働きを担うことで、イエス様に倣っていきましょう。できるできないよりも、向かっていく方向性は示されておりますので、その方向に体の向きを定め、一歩でも前に進めるように、「幸いだ」との宣言をいただけるように、歩んでまいりましょう。私たちには、模範者としてのイエス様がおられます。このお方に倣う者でありたいと今年も思うのです。