巻頭言


12月31日

ルカによる福音書2章22〜38節

老いゆく者の希望

平良 

 

 少子高齢化の今の日本社会にあって、ご高齢の方々の希望とは何かと、問うたならば、人々は何と答えるでしょうか。温泉か何か、ゆっくりできる場所へ行って、心安らぐ音楽でも聴きながら、おいしい物を食べることかな、そう言われるでしょうか。それとも、そんなものは何もない、とお答えになるでしょうか。老いていく者たちにとっての希望ということであれば、今日の箇所ほど、それについてはっきりと述べているところもないでしょう。
 それは、エルサレムに住んでいたシメオンという人物が、おそらく旧約時代の最後の頃の預言者的な人だったのでしょうが、その彼はメシアに会うということでした。この希望に、彼は生きておりました。なぜなら、彼は、聖霊のお告げで「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と言われていたからでした。シメオンには、神殿に献げ物を持ってやってきたヨセフとマリア、そして、マリアが抱いているイエス様を見たとき、聖霊によって、この幼子がメシアだとわかりました。
 彼は、幼子を腕に抱き、神様を讃美して「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」、と言いました。もうひとり、女預言者のアンナという人物もメシアの到来を待っていました。彼女は、84歳だったと言います。当時の平均寿命からすれば、随分長生きをしている女性でした。彼女も、おそらく聖霊により、この幼子がメシアであることを理解できたのでした。
 この二人の存在は、旧約から新約へと新しい時代の到来を告げておりました。キリスト教信仰をもつ者として、この二人の歩みは、高齢化社会に生きる私たちにとって、第三の歩み方があることを教えています。それは悟りでもなく、諦めでもない、実に、老いても失せない希望に満ちた生き方です。再臨のイエス様を待ち望みつつ、今を生きるという生き方と重なります。


12月24日

ルカによる福音書2章1〜21節

クリスマスの喜び

平良 

 

 この2章の1節から21節のお話は、3つの場面から成っています。一つは、皇帝アウグストゥスの勅令によって、ローマの全領土の住民が自分の出身地に行って住民登録をしなければならなくなり、ヨセフとマリアも、ベツレヘムに戻ってきたという話です。そして、そこでマリアは月が満ちて、イエス様を産んだけれども、宿屋がなくて、飼い葉桶に寝かさなければならなくなったという場面。
 もう一つは、丁度その頃、その地方で、羊飼いたちが野宿しながら、羊の番をしているところへ、天使たちが現れて「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。その方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と言われた場面です。そして、三つ目は、この天使たちの御告げを信じた羊飼いたちが、実際にベツレヘムへ行って、飼い葉桶に寝かせている乳飲み子を探し当てたという場面です。
 身重でありながら、権力者の一存で、命の危険にさらされるマリアでしたが、それは、マリア一人に限らず、まさに、大勢の人々が、右往左往させられたことでしょう。何といっても、最初の住民登録だったとあります。それから、神の独り子でありながら、宿屋がなく、家畜小屋の飼い葉桶に寝かされることとなったというのは、最初から、この方は、世の権力者とは違う形のメシアであるということです。
 そして、羊飼いたちは、野宿しながら羊の番をしていたというのですが、住民登録には、これらの人々は、手続きしなくてもよかったのでしょうか。住民登録は、権力者が税金を集める元となる台帳を作るためのものでした。そうした対象者として、羊飼いたちは考えられていなかったのでしょうか。もしそうであれば、そうした貧しい者たちの所へ、一番にメシア誕生の知らせが届いたということです。