平和1丁目 〜牧師室より〜

12月31日

二つの『常識』

平良 

 「青野先生はキリスト教の『常識』にいつも挑戦されているのですね」といった類のことを言われることがある。しかし私が挑戦しているのはむしろ、少しでも新約聖書学の「常識」を日常のキリスト教信仰のなかに取り入れたい、ということである。しかしそれらふたつの「常識」は、多くの場合、厳しくあい対立しているので、ことはやっかいなのである。
 例えば、先週クリスマスにお祝いしたばかりのイエスの誕生であるが、それは処女マリアが「聖霊によって」身ごもった男児の出生としての、いわゆる「処女降誕」であった、との主張の歴史的信憑性は、新約聖書学的にはほとんどまったく相手にされない。
 「それは古い伝承であるどころか、……何らかの歴史的記憶に遡るものでさえない」(J. ロロフ)。また、「豊富なヘレニズム的な並行資料を前にしては、……それはまさに歴史的蓋然性のないものである」(U. ルッツ)。「豊富なヘレニズム的な並行資料」は、ヘラクレスとかアレクサンダー大王、哲学者プラトン、ローマ皇帝アウグストゥスなどなど、当時の偉大な人物や英雄の多くが神を父親として生まれてきた、と証言している。
 だから、イエスに関する「処女降誕」の物語は、キリスト教に固有のものではまさになかったのであり、当時の「世俗的」な「信仰」形態のひとつにすぎなかったのである。もしもそれがキリスト教の福音にとって本質的で必要不可欠な意味を持った信仰理解であるのならば、たとえそれが非科学的であろうと非「常識」的であろうと、新約聖書学は敢然とそれを選びとることを躊躇はしないであろう。
 しかし、パウロが言うように「神は御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送られた」(ローマ8章3節、新共同訳)のであり、だからこそこの世の弱く罪深い者たちの救いはあり得るのだ、という聖書に固有な信仰理解は、「処女降誕」の思想とは相容れない。すなわち、人間的な弱さや罪深さを超越した絶対的な聖潔さや強さをこそイエスの誕生のなかに見ようとする思想とは、合致しない。そしてこの「弱く罪深い者たちのため」という視点を強固に持ったフェミニスト神学的な新約聖書学が、「処女降誕」物語に大きな違和感を持つのは当然であろう。
 日本バプテスト女性連合の機関誌『世の光』の2017年度の「聖書研究」担当の、国際的に活躍中のフェミニスト聖書学者山口里子さんは、その12月号で、まず初めにマリアの「婚外妊娠」という事実があって、それが「処女降誕」の物語へと発展したのだろう、と推論されている。同様に国際的なフェミニスト聖書学者である絹川久子さんも、『沈黙の声を聴く マルコ福音書から』(日本キリスト教団出版局 2014年、222頁以下)で、ほぼ同様の議論を展開されている。
 『世の光』12月号を読んだ一人の女性は、「もしもこういうことが教会で語られてきたとしたら、婚外妊娠というようなことで深く心を痛めてきた女性たちの多くが、きっと大きな慰めを受けることができたでしょうに」と慨嘆されていた。しかしキリスト教の「常識」は、そのような発言こそ神への冒涜だ、ときっと激しく断罪することだろうと思う。
 私個人は、ローマ皇帝アウグストゥスは父親の介在なしに直接神から生まれたのだと主張する「皇帝崇拝」に対して初期キリスト者たちが抱いた抗議の思いこそが、「処女降誕」物語の成立の動機だったのではないか、と考えてはいる。しかし、いずれにしても私の「挑戦」は、当分終わりそうもない。


12月24日

谷口嘉浩のことを思う

平良 

 今年のクリスマスは、谷口嘉浩兄のことを思うと悲しい。今は、主のみもとで安らいでおられることだろう。平和の日の礼拝では、谷口兄に、この数年いつも平尾教会の社会委員長として、平和について語ってもらってきていた。障害を負っている立場ということもあってか、今年できたこひつじの園ランチカフェの働きにも気持ちを注いでくださった。
 特に、お母様が9月に天に召されてからは、ご自宅を教会のいろいろな集会に使ってもらいたいと幾人かの方々と話し合って、それなりに準備を進めていた。しかし、その矢先の11月21日に脳出血で倒れられたのだった。そして、12月17日に66歳で天に召された。
 新生讃美歌の154番「生けるものすべて」が愛唱讃美歌で、ローマの信徒への手紙5:3〜5「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」が愛唱聖句だった。
 154番は、イエス様のご降誕を歌っているこの時期の讃美歌であり、聖句は、あたかも、ご自身のこの十数年の歩みを総括しておられるようにみえる。今日もこれから教会車で、祈祷会に来られる方を迎えにいく。イスが外に出ていくタイプのこの福祉車は、谷口嘉浩というもうひとりの主人を失って、とても寂しそうだ。


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