今週の風囁(週報の教会員の証し)


10月1日

道・真理・いのち ❶

I.T 

 大学院生のとき、ある友人が「よかったぞ」と言った『帰り来ぬ風』がきっかけでした。三浦綾子さんの、傷つく看護師の小説でした。たった一箇所、詩編78編の「帰り来ぬ風」のフレーズだけが出てくるのが心に留まりました。そうか、聖書か。

 私は生まれ故郷の福岡から京都に出て行き、哲学を学んでいました。浪人するまでは数学に惹かれていたのが、世界の真理と、自分の疑問とを扱うのは哲学だと気づき、哲学なら京都だ、と考えたのです。現代世界は西洋文明が害したと考えていました。その西洋思想を壊したいという壮大な野望がありました。しかし、西洋思想の基礎ともいえる聖書をまともに読んだことがなかったことに気づいたわけです。

 高校のとき、クリスチャンの女子生徒が、学校に国際ギデオン協会を呼んで新約聖書を配っていました。なんとなく京都にまでそれを持ってきていたので、それを読み始めました。案外美しい教えが並んでいる。心が洗われるような気持ちになりました。そのうち第一コリント書の愛の章まで来ました。「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」(口語訳)。私はそれまで、自分はひとを愛し続けてきたつもりでした。

 しかし、「愛」に自分の名をあてはめようとすると、恥ずかしくなりました。自分には愛がない、と突きつけられました。自分は間違っている。誰をも愛することなんかできていなかった。実はそのころ私は「愛する」だなどと言いながら、人を激しく傷つけたことで苦しんでいました。京阪電車に飛び込もうかと、いつも線路を眺めていたような頃だったのです。それで、この愛の列は突き刺さりました。「神よ、誰か一人でもいい、愛せる人間にならせてください。」泣きながら、初めて祈りました。

 

10月8日

道・真理・いのち ❷

 聖書を旧約聖書からきちんと読みたいと思いました。今度は自分で買ってきて読み始めました。創世記3章で、私は神に呼びかけられました。「あなたはどこにいるのか。」

 私は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けました。自分のことも弁えず、世界を変えるなどと意気込み、自分が偉いかのように思いなしていた自分。けれども自分がどこにいるのかさえ、分かっていない。神の前に今ずるずると引きずり出されて、顔を上げることもできませんでした。打ちのめされました。福音書を再び開くと、それまでと違い、イエスの言葉が生き生きと伝わってきます。「どこにいるのか」と問われたまま、十字架刑の場面まできたとき、「十字架につけろ」と叫ぶ群集の中にいる自分を見出しました。そして私は、イエスに唾を吐きかけ、嘲笑し、その手に、足に、釘を打っていました。私の意識は今もなお、ここから離れることができません。見上げればいつも見えるのは、十字架につけられたままのキリストであるばかりか、紛れもなく私が十字架につけたキリストであるのです。それでも、イエスは私を見つめ、ついに頭を垂れたとき、私を責めず、私を攻撃せず、ただ赦してくださるのでした。

 幼い頃から私は死を意識し、怯える子どもでした。永遠の命を求めてイエスの周りに集まる者のひとりのようでした。哲学の中に見出したかった問題の一つは、これでした。電車を見つめていた私が如何に矛盾し混乱していたか、ご理解戴けるかと思います。もしイエスがここで死んで終わっただけだったら、私に救いはなかったことでしょう。復活の知らせは、私を「信じる」というレベルにまで引き上げてくれました。

 かつての私は、つまり罪の私は、十字架のイエスと共に死にました。罪の証言の集まる証書は、ぼろ雑巾のように架けられたイエスと共に、そこに釘付けにされて、処分されました。新しいいのちに立ち上がらされて、新しい歩みを始めました。と、いきたいところですが、実は、もうひとつだけ、わだかまりがありました。その問題は、事実として、いくら神でも変更することは不可能であるものでした。

 しかし、神は真実でした。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」(ヨハネ9:3)と宣言されたとき、私の中のすべての霧が晴れていくのを覚えました。私は完全に主に握られました。

 

10月15日

 

道・真理・いのち ❸

 私が京都で初めて足を踏み入れた京都市の教会で、Hと出会いました。その後別の教会に移り、その「活けるキリスト京都一麦教会」で私は洗礼を受け、やがて小さな結婚式を挙げて戴きました。2人の男の子に恵まれ、やがて福岡に居を構える道が用意されました。阪神淡路大震災で危うく死ぬところでしたが、大好きだった神戸の変わり果てた姿を一度しっかり目に焼き付けてから、福岡に戻りました。ですから、三男と私だけが福岡生まれです。

 福岡に来ても京都の母教会との関係を保っていましたが、あることを契機に、初めて籍を移したのが以前の教会でした。しかし昨年、そこで教会が割れるほどの問題が起こり、私は無責任なことではありましたが、家族を守る思いから、逃れるように出て行くことにしました。

 いま同居している子は三男だけです。中学生になり、日曜日の朝に部活があることが分かりましたが、午後に礼拝に出られる場所として、大名クロスガーデンの存在を知りました。少年少女会で次男が関わっていた方々がいたこと、また音楽性の点からも馴染みやすかったこともあり、三男のための居場所になってくれたらいいと思っていました。私とHは、会堂の片隅にさえおらせて戴ければそれで十分ではありましたが、皆さんに優しくして戴く中で、そこが自分たちの居場所にもなってくるのを覚えました。

 準備をこれほどまでするのかと驚く、若い方々のエネルギッシュなバンドの賛美と、分かりやすくポイントを突いたメッセージを貴く思い、感謝しています。私は進学塾で小中学生に勉強を教えています。日ごろ若さを吸いとって栄養にしていますので、今度は逆に、若い世代を応援したいという思いもあります。また、手話という文化をご紹介することで、人がなかなか気づかない、弱い立場にされた方々への気づきを共に与えられたらと願っています。そのために、大名クロスガーデンで何かお役に立てることがあればありがたいと思います。「どこにいるのか」と問われても、答えを告げることができるように。

 

道・真理・いのち

 

誰の力を借りることもなく

誰の助けも無駄だと思ってた

 

人はどこから来て どこへ向かうのわたしはどこに 今いるの

道を見失った わたしの灯火に

イエスはなってくれた 真理として

 

風がいつしか消えてゆくように

やがてわたしもいなくなるのだろう 

 

人が時の中で 滅びを見ても

時を超えゆく この望み

いのちの行く先に 怯えるわたしだった

イエスのよみがえりを 信じるまで

 

愛を知らなかった わたしの心にも

今満ち足りている イエスの言葉


過去の風囁はブログとしてアップしています。

教会員の証しですので、個人名はイニシャルに変えています。

個人の希望の場合、週報のみの掲載で、HPにもBlogにもアップしません。


 

平尾教会(HBC)はバプテスト派のキリスト教の教会です。